2017年7月28日金曜日

じゃれあいというユートピア――ハワード・ホークス『赤ちゃん教育」(1938年)





 同じくハワード・ホークスの『三つ数えろ』にはウィリアム・フォークナー、リー・ブラケット、ジュールス・ファースマンという三人の脚本家が関わっており、フォークナーはさほど深くは関係していないようだが、それはともかく、誰もが入り組んだプロットの詳細を理解することができず、原作者のレイモンド・チャンドラーに聞いても、はかばかしい答えを得ることができなかったが、にも関わらずハードボイルド映画の傑作ができあがってしまった。

 あるいは、『赤ちゃん教育』の脚本を書いたダドリー・ニコルズとヘイジャー・ワイルドもまたそのプロットについて尋ねられたら、答えに窮したかもしれない。私自身、数回見ているにも関わらず、見るたびにこんな映画だったか、と思いを新たにする。一応、この映画、スクリューボールコメディに分類されるだろう。

 スクリューボールコメディは映画においても突出した珍しい狂騒的なジャンルでアメリカにしか存在しないが、それにしても定型がある。この時期のコメディをアメリカの哲学者スタンリー・カヴェルは「再結婚のコメディ」と名づけた。フランク・キャプラの『或る夜の出来事』、プレストン・スタージェスの『レディ・イブ』、レオ・マッケリーの『新婚道中記』、ジョージ・キューカー『アダム氏とマダム』、ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』などに見られるように、実際に結婚しているかどうかはともかく、あることをきっかけに別れるとなったカップルが、法外な出来事を二人して乗り越えることによって、再びカップルとしての絆を取り戻す。そこに登場するおじやおば、また概して年寄りは奇矯な人物が多く、独特の規範を持っており、二人を助けることが多い。だが、『赤ちゃん教育』はこうしたジャンルをかすめながらついには滑空してしまう映画である。それゆえ、類型に振り分けて記憶しにくいのである。

 『赤ちゃん教育』はキャサリン・ヘップバーン演じる女性が、ケーリー・グラント演じる古生物学者を狩る物語である。ケーリー・グラントは研究一筋の世間知らずで、研究仲間の女性との結婚を控えている。彼は博物館で、恐竜の白骨標本を組み立てており、それを完成させ、維持するためには相応の寄付金を得なければならない。そうした社交的な駆け引きは彼が最も苦手とするものである。寄付金を出してくれるという老嬢に会うためにはまずその弁護士に良い印象を与えておかなければならない。ところがその働きかけをことごとく邪魔するのがキャサリン・ヘップバーンである。

 彼女はほとんど常軌を逸しており、グラントが研究ばかりしていたのと同じように、世間知らずのお嬢さんなのだといって片付けるわけにもいかない。最終的に寄付金を出すと言っていた女性の姪であることが明らかになるので、それなりの階級に属してはいるのだろうが、人の車に勝手に乗り込んでぶつけても平然とし、いったんケーリー・グラントに目をつけるや、婚約者がおり、結婚が寸前に迫っているにもかかわらず、委細関係なく迫っていく。


 この映画には、豹、犬、鶏と多くの動物が登場するが、動物たちとヘップバーンの間にさしたる相違はない。『赤ちゃん教育』とは意味深長な題である。ヘップバーンが、研究しか頭にないグラントに恋を目覚めさせる教育とも思えるが、同時にヘップバーンがペアリングによって生物としての人間の規範を学習するとも見られるし、二人の赤ちゃんが親密な関係を築くことによって人間的な作法を躾けられるとも思われるが、いずれにしても他のスクリューボールコメディと異なるのは、それらが再結婚の物語ということで、あからさまに言われないまでも、セックスが主題になっているのに対し、互いが互いにとって赤ちゃんであるこの映画にはセックスの要素は欠けている。実際、ケーリー・グラントが最後に告白かつプロポーズするのは、「君といると楽しかったから」ということであり、欲望に濁ることのない子供にしかないじゃれあいにあふれたほとんどユートピアにも似た関係を再確認することなのである。

2017年7月26日水曜日

エントロピーと心中――広津柳浪『今戸心中』(明治二十九年八月)



 今戸は、ほぼ、浅草、吉原、隅田川に囲まれた場所にある。

 私は、数回通り過ぎたこと位はありそうだが、なにも記憶には残っていない。

 それでもこの地名になじみがあるのは落語に『今戸の狐』があるからである。もっともこの噺、何度聞いても途中で内容がわからなくなってしまう。改めて、集中して聴いてみると、相変わらずわかりにくい噺だが、要するに、まだ駆け出しの落語家が、内職は禁じられているのだが、生活が苦しいために今戸焼の狐の顔を描いている。ところが、キツネというのはヤクザ者たちの隠語では博打の一種で、さらには近くで同じ内職をする女(妻)と、博打に使うサイコロのサイとが取り違えられて、会話がちぐはぐになる。今戸焼は江戸から明治にかけては盛んだったが、現在ではほとんど継承されていないようだ。お稲荷さんでよく見られるキツネの置物、あのなかに今戸の狐が混じっていることはあるのだろうか。

 ところで、『今戸心中』は今戸を舞台にした小説ではない。今戸は隅田川に行くための通り道であって、心中に到る経緯は吉原の妓楼で起きている。吉里は美人というのではないが、男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見え、睨まれるとぞっとするようだが、にっこりされるとふるいつきたくなる二十二、三の稼ぎ盛りの花魁である。花魁には言い交わした仲の平田という男がいる。だが、国許で父親が事業に失敗し、気が抜けたようになってしまった。母親がすでにない上に、幼い弟と妹がいるので、平田が帰って、一家をどうにか立て直す必要がある。突然、三人を養う身となって、いつ東京に戻れるのか、先の見通しも立たない。吉里は死んでも別れたくないと思ってはいるが、平田の胸中の苦しさや誠実さもわかるので、泣く泣く彼の言葉を飲み込まざるを得なかった。

 吉里には、つきまとうように、三日にあげず通ってきていやでたまらない善吉という客がいた。平田が、二十六、七で、ふさふさと波を打った髪の毛が、雪にもまがう顔の色を引き立て、細面ではあるが力があり、鼻はすっきりと高く、口元には愛嬌があり、男の目から見ても男らしいのに対し、善吉は四十にもなろうか、痘瘡の跡がはっきりと残っており、左のまぶたには傷がある冴えない中年の男である。平田との最後の別れの夜にも、善吉は吉里が部屋に来るのを待っている。吉里は常々善吉にはつれない振る舞いをしていたが、まして、悲しくてどうしようもない夜、善吉のことなどまったく眼中にない。

 だが、平田を乗せた国へと帰る汽車がすでに出発したと思われる翌朝、悲しみに疲弊したのか、あるいはようやくその存在に気づいて客商売の本分を思い返したのか、待ちぼうけを喰わせた善吉と言葉を交わす。すると、善吉は、もうここには来られないので、最後の酌を受けて欲しいと頼む。富沢町に店も持ち、三、四人の奉公人も使っていたのだが、花魁のところに通っているうちに、店も家もとられ、妻も生家に帰してしまった。遊びを知ったのも花魁のところだし、花魁の店にしか来なかったのだから、せめて最後に花魁と酒を酌み交わしたいと思っていた、もう心残りはないという。

 その後、吉里は善吉が店に来るための金を、朋輩に借りてまわり、不義理を重ねていく。平田とのことを心配し、以前から気遣っていてくれた先輩の花魁である小萬も、平田から来た手紙をまとめて平田の元に返して欲しい、と頼まれて、あまりに薄情だと、愛想づかしの言葉を浴びせかける。しばらくして、吉里の姿が見えなくなったと騒ぎになる。小萬がふと気がついて、平田からのものだといって残していった手紙を見てみると、よんどころなく覚悟を決めました、平田さんにも、お前さまにもすまないことです、されど私の誠の心は写真でも御推量くださるでしょう、と小萬宛の手紙が混じっており、「写真を見ると、平田と吉里のを表と表と合せて、裏には心と云ふ字を大きく書き、捻紙にて十文字に絡げてあツた。」それがちょうど十二月の煤払いのときで、翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流れ着いた。顔は腐って見定めることができなかったが、着物は吉里が着ていたものだった。箕輪の無縁寺に葬られ、小萬は七日七日の香華を手向けた。

 広津柳浪は硯友社の同人ではあるが、尾崎紅葉より十歳ほど年上であり、「客分」として扱われたという。洋行前、二十歳になるかならない永井荷風が入門したことでも知られている。小説家としての経歴は長いが、活躍したのは明治三十年前後で、作品は散逸し、決定的な全集も出ていない。

 『今戸心中』はほとんど事実をそのままにとったものだという。『明治文学全集』の『広津柳浪集』の吉田精一による解説には、作者の言葉が引用されており、おおよそのあらすじが述べられた後、次のように書いている。

此の心の変動が誰れにも分からなかツたさうです。私は此の疑問に対して聊か解釈を試みたいと思ツたので、『今戸心中』をかいて見たのです。それで私の解釈では、自分が恋の絶望を経験して、古着屋が今まで恋の絶望のにゐた其苦しみを覚り、始めて激烈に同情を表した結果だらうと思ひました。約めて云へば、絶望と絶望との間に成立てる同情の果てが、心中となツたのか知らんと解釈をして見たのです。
  (「新著月刊」三十年四月、のち「唾玉集」所収)

 作者の意図は明らかだが、ひとは同情から死にはしない。同情が情を同じくすることにあるなら、それ自体なにも生みだしはしない。同情がしばしば嫌われるのは、他者から自分の情を規定されることへの自尊心の抵抗から、あるいはまた、情を同じくするという一方的な働きかけだけがあって、結局のところ、人間の孤立性がより明らかになるだけだからである。つまり、吉里は同情したから心中したのではなく、意識的ではないにしろ、すでに死を自覚していたから善吉に同情することができた。そして、同情はより決定的な行為への跳躍台でしかなかった。吉里の情の動きは次のように描かれている。

善吉も今日限来ないものであると聞いては、此ほど実情のある人を、何で彼様に冷遇くしたらう、実に悪い事を為たと、大罪を犯した様な気がする。善吉の女房の可哀想なのが身につまされて、平田に捨てられた自分の果敢なさも亦人入になツて来る。其で、耐らなく平田が恋しくなツて、善吉が気の毒になツて、心細くなツて、自分が果敢なまれて沈んで行く様に頭が森となつて、耳には善吉の言葉が一々能く聞え、善吉の泣いて居るのも能く見え、耐らなく悲しくなツて来て、終に泣出さずには居られなかツた。

 「自分が果敢なまれて沈んで行く様に頭がとなつて」とあるのは、すでに隅田川に沈んでいく者の感覚を先取りしている。そもそも善吉の心情は、吉里に待ちぼうけを喰わされている間に少々描かれはするものの、吉里が不義理な借金をし、善吉を店にあげ続けるようになってからは、まったく触れられることはなくなる。近松などの心中ものと決定的に異なるのは、彼らにおいては、社会や共同体からの排除、隔絶が、そのまま跳ね返って、二人の情感を高め、ついには道行きという一種澄み渡った世界にまで昇華されるのに反し、吉里は周囲から白眼視されようと、それを昇華させるための相手がいない。結局心中への道行きが描かれることはないし、善吉がどのような心境で吉里と死をともにしたのか一切読者にはわからない。


 社会的な因習に縛られたものではない、孤立した人間の死を描いている点で、モダンな小説である。社会的道徳や因習などよりも、むしろ死に向かいつつあるしかない世界を感じさせる。冒頭の「太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ツて、廿四の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽る程である。不夜城を誇顔の電気燈にも、霜枯三月の淋しさ免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ツた声のさゞめきも聞えぬ。」から始まり、空は晴れ渡ることはなく、当時の遊女屋の暗さと静けさが惻々と感じられてくる。吉里の平田に対する愛情も、善吉に対する「同情」も鈍い光りを一瞬垣間見せながら、エントロピーにしたがって散逸していく。

2017年7月18日火曜日

小説の隠れ場所――齋藤緑雨『かくれんぼ』(明治二十四年)



 「○油地獄を言ふ者多く、かくれんぼを言ふ者少し。是れわれの小説に筆を着けんとおもひ、絶たんとおもひし双方の始なり、終なり。」と『日用帳』で緑雨は書いている。もっとも、発表されたのはどちらも明治二十四年で、三十六年ばかりの生涯の、二十歳代の中盤で、小説に距離を取り始めたことを示している。坪内逍遙、二葉亭四迷、森鷗外のように、海外の文学の現物に直接触れることはなかったであろう緑雨には、モデルとなるべき小説像を最後までもつことができなかった。たとえば、『小説八宗』でされたように、「煙管を持た莨を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸つた煙を吹いた」と二葉亭四迷の文体パロディーをするところなどは、鋭いが、『古今集』をもとに狂歌をつくり、唐詩をもとに狂詩をつくった天明の文人とさほど径庭はない。むしろ、希有とすべきは、百家争鳴たる当時の文壇で、江戸趣味とレトリックで伍していこうとしたところにある。

 実際、『油地獄』と『かくれんぼ』はどちらも遊里を舞台にした小説であり、しかも主人公となる男の運動の姿が正反対だというだけで、内容的にはさしたる相違はない。確かに『油地獄』には書生は出てくるが、坪内逍遙や二葉亭四迷のように、それをもって現代の風俗を描こうという意図はない。

 『油地獄』は目賀田貞之進という男が主人公で、法学を学んでいるが、『当世書生気質』の登場人物たちのように、酒を飲むことと議論とに明け暮れているわけではない。信濃の田舎の富豪の家の一人息子で、金には苦労がないが、特に好んでいるものはない。社交性がある方ではなく、学生仲間と友だちづきあいを熱心にするのでもない。そんな彼が、東京にも慣れてきて、知り合いも数人できたので、在京長野人の春期懇親会に出席することにした。そもそもが引っ込み思案だから、見知らぬひとばかりの会に出たところで、うまく立ち回れるはずもない。懇親会は百名以上を集めたなかなか盛大なもので、講談と落語の余興が終わった後には、食膳と酒が出て、芸者も呼ばれている。そこで貞之進のいる方にお酌にまわっていたのが、柳橋の小歌という芸者で、彼はすっかり恋をしてしまった。ところが、愚直一方なので芸者を呼ぶ算段がわからない。下宿をしているところのお上さんがむかし茶屋奉公をしたのを思いだし、なんとか一通りの知識を手に入れた。それでなんとか小歌を呼べて、再会を果たせばそれで満足かといえばそんなはずはなく、ますます小歌のことを思うようになった。しかも根が「愚直」であるから、客商売のお愛想がわからない。てっきり相思相愛の仲だと独り決めにしている。それからは茶屋通いの金のために、里には嘘をつく、顔見知りの間を借りまくる。一方、小歌の方は、男を手玉に取る毒婦といった大層なものでもなく、普通に客に接するように接しているに過ぎないので、別に旦那がちゃんといる。いよいよ金にも切迫し、小歌にも会えないとき、新聞で、小歌が身受けされたことを知る。それから貞之進は頭から布団をかぶって寝込んでいたが、夜の一時頃、火鉢へ山のように炭を積んで火をおこし、載せたのは油の入った鍋、ぶつぶつ煮え立った油に投げ込んだのは小歌の写真、それから病の床につき、夜昼となく「あの小歌めが、あの小歌めが」。

 小歌の身受けを知ったときの貞之進は、「嘘であるべく願つて居た疑ひの方からすれば、それが実であつたゞけで小歌の廃業に就て怪む所はないが、実であるべく祈つて居た打消しの方からすれば、それが全く嘘であつたので、約束したでもないことが心変りかのやうに思はれ、為に貞之進は殆ど狂する如くで、外に忿怒の色の現れるだけそれだけ、内に沈鬱することの倍〃多きを加へた。」と描かれるが、つまるところ、内実は嘘も実も、約束も心変わりもない。心中もののように、男女の纏綿たる情緒があるわけでもなく、かといって、芸者とのあいだの技巧的な関係が描かれるのでもなく、他者を欠いた砂上に楼閣を築こうとしているよう小説である。

 同じく『かくれんぼ』もまた、山村俊雄という「ふところ育ち」の男が、芝居の帰りに飯だけでもと上がったところから、小春となじみとなり、お夏とも関係を持ち、いったん仲直りをするが、今度は秋子にちょっかいをだし、小春お夏に踏み込まれてもさして痛痒を感じないらしく、冬吉の所に転がり込み、一緒に生活してみると、冬吉のくどいのにも飽きて、冬吉の妹分の小露に手を出し、例によって知られて修羅場が始まり、実家に戻ったまではいいが、二、三月もし、山村君どうだね、と誘われれば、ふらふらと出かけ、俊雄のどこかに残るおとなしい育ちを見て取ったのか、一日だけでいいからあの方と遊ぶ手立てはないものでしょうか、と雪江が姉分のお霜に相談をかければ、承知と呑み込んだお霜の方と通じ、二人に詰め寄られて、冬吉のもとに転がり込み、彼こそ後に小百合と呼ばれることになる名代の色悪なのだといわれる。もはやここには、嘘と実、約束と心変わりすら持ちだされることはなく、女性は記号化され、山村俊雄は記号を扱う手、つまり齋藤緑雨と見分けがたくなっている。


 『油地獄』では貞之進の執念が凝り固まって、油地獄を現出させたが、作者の握る筆記具のなかにしかいない山村俊雄は、かくれんぼで勝ちを得続ける。しかし、それは現実の細部を洗い流した、ごく抽象的な、書くことによって自律するような作品であって、多作することも、長編小説への試みも許すものではなかった。

2017年7月17日月曜日

女たちの円居――是枝裕和『海街diary』(2015年)



 かつて、批評家時代のトリュフォーは、脚本の映画と演出の映画とを区別し、演劇の延長でしかないような脚本の映画の代表である旧弊なフランス映画を軒並みに非難した。もっともそれは自らが代表者の一人であるヌーヴェル・ヴァーグという新しい運動のための戦略的な立場であって、自分はアメリカ映画などと同じく、古き良きフランス映画を見て育ってきたのだった。立場こそ全く異なるものの、是枝裕和の映画を見ると、脚本の映画を感じる。圧倒的な映像の力はないが、細かな心配りが行き届いている。こう言うのは戦略的な立場からの貶下的な意味はなくて、よく練られた脚本というものは、すでに失われつつある。

 鎌倉の古い家に、三人の姉妹が住んでいる。父親は女を作って家を出てゆき、母親もまた家を飛び出して姿をくらませてしまった。三人を育てたのは祖母で、祖母が死んでからは、看護婦となった長女の綾瀬はるかが、妹二人を母親がわりに育て上げ、気を張って生きている。次女の長澤まさみは銀行勤めだが姉妹の中では一番奔放な性格であり、今ひとつ男を見る目がなく、酒癖も悪い。三女の夏帆は、一番おっとりしており、個人経営のスポーツ店に勤めているせいか、それほど社会との接点もなく、無責任でいられる。

 そんな姉妹のもとに、女を作って出て行った父親が死んだという知らせが入る。一番複雑な思いをするのは長女であり、次女と三女は実はそれほど父親のことを覚えていないのだ。父親は家を出てからも色々あったらしく、葬儀で、喪主である最後の妻とは血の繋がりのない、腹違いである中学生の妹、広瀬すずと出会う。気丈に振る舞っている彼女の姿を見て、「鎌倉に来て一緒に住まない」とつい声をかけてしまい、瓢箪から駒が出るように話は実現し、四人で過ごすことになる。


 鎌倉で父と娘といったら、どうしても小津安二郎を思い出してしまうが、小津映画にも何らかの葛藤、例えば娘の結婚があり、それが決着することによって映画が終わる、別の言葉で言えば、未練を残しながらこれまでと同じ環境を支えきれなくなるのだが、この映画では、それぞれに葛藤はあるものの、彼女たちの世界を壊すことは見事に回避されている。

 長女は父親がそうであったように同じ病院の医師と不倫の関係にあり、妻と正式に別れてアメリカに行くのだが、一緒に来てくれないかと頼まれるが、新しく任せられることになった終末期の患者を看取る看護の職に止まることにする。次女はあいも変わらず変な男に引っかかってしまうが、一晩泥酔してしまえば、さっぱりしたもので、特に引きずることもない。三女はスポーツ店の店主と仲がよいが、どのまで進んでいるのか、これから変化して行くのか最初から最後まで変わらない。新しく加わった四女は、かつては継母との間に確執もあったようだが、鎌倉に来てからはサッカー部に入り、男友達もできた。上の二人はパンティ・ストッキングを履き、下の二人はソックスを履いて、三人でいたときにあった不均衡は、四人となって完全な均衡を得る。映画といえば現状の変化、成長が欠かせないというのは一つの幻想であり、ある意味男性に偏向したテーマであり、安定を取り戻すという女性に特有の主題がありうることを、鎌倉という海と山に挟まれた夢のような土地で(私は特に鎌倉や江ノ島に特別な思い出があるわけではないが、江ノ島の形を見るだけで胸がきやきやする)幻想のように示している。

2017年7月14日金曜日

おととい抜け落ちたはずの青春――山下敦弘『リンダ リンダ リンダ』(2005年)



 私には青春時代がすっぽり抜け落ちている。性欲と自意識はありあまるほどあったが、葛藤を抱え込んだ記憶がない。楽しくはなかったが、さりとて苦しくもなく、自分のことも含めて無関心に過ごしていた。生の諸段階として、少年と老年しか認めていなかったから、自分も含めて青春の生臭さは嫌悪していた。というと、それこそ青春らしい潔癖さということになるのかもしれないが、身を律するような厳しさはなく、いやなことは避けていたという程度のことであり、およそこの時期にコミットすることを促すような出来事に出会わなかったのでもあろう。

 そんなわけで、青春映画は苦手で、事実そのジャンルで印象に残るような映画を思い起こせない。『時計仕掛けのオレンジ』をあげるのもおかしいだろうし、ゴダールやトリュフォーでも、初期の作品はそれほど好きでもない。しかし、慚愧に堪えないのは、もはや中堅監督といってもいい山下敦弘監督について、ノーマークだったことだ。『リンダ リンダ リンダ』にしても、「リンダ・リンダ」、女子高生、バンド、文化祭と紹介されていることですっかりわかったつもりになっていたのである。この映画の後に、『もらとりあむタマ子』、『リアリズムの宿』『苦役列車』『松ヶ枝乱射事件』と続けてみて、日本映画で最も関心を持つ監督の一人になった。

 タイトルが出て、主人公の一人が、教室の廊下を歩いて歩いて、いくつもの教室を越え、二つの教室で窓越しに、友人らしき人物と短い会話を交わし、再び階段の方へ向かう様子を1カットの移動撮影でとらえたときからすでに目は釘付けになってしまった。映像そのものの力をこれほど感じたのは、日本映画では北野武以来である。

 女子高生バンドが文化祭に向けて準備をしている。ところが、メンバーの一人が手にけがをし参加できなくなり、仲間のなかでも仲のよかった二人が喧嘩をして、一人が抜けてしまう。残ったメンバーは三人、肝心のボーカルがいなくなってしまった。喧嘩して残った方の一人(香椎由宇)はなかば意地になり、さして知りもしない通りがかりの女の子に声をかける。ところが、その女性、こともあろうに、日本語が堪能ともいえない韓国からの留学生だった(ペ・ドゥナ)。オリジナル曲はあきらめ、カバー曲で妥協するにしても期日は迫る、朝から晩まで練習しなければならない。連日の練習で、本番当日、一休みするつもりで寝過ごしてしまうが、友人が、アカペラで、留年した先輩が弾き語りで間をつないでくれる。


 舞台は体育館で、地方の高校の学祭が、ライブ・コンサートのように満杯になるわけではない。突然の豪雨で、多少増えた観客の前で、演奏が始まるが、キラー・ソングであるブルーハーツの『リンダ リンダ』を最後の曲に使うのではなく、より主題にふさわしい『終わらない歌』で締めくくっていることも心憎いところで、その曲のあいだに挿入される無人の学校の各場所ショットの積み重ねが、空虚ではない、降りしきる雨が上げるしぶきにも似た何かに充填された空間として圧倒的である。また、演奏の映像が、舞台を下手からとらえたものか、半分くらいに詰まった体育館の背後からのもので、ライブの映像によく用いられる、舞台の枠にきちんと収まったものが周到に避けられているのは、女子高生たちの演奏が、最初よりは上達したとはいえ、決して上手であるとはいえない演奏だとしても、そんなことは関係なく場を支配できるが、文化祭というもので、うまい演奏などではなく、彼らが不器用ながらも作りあげていった人間関係が学校という小さな世界に共有されることが彼らの勝利であり、映しだされるのはあくまで演奏する彼らを含めた場なのだということを示していて、こういう映画を見ると、抜け落ちていたはずの青春が幻肢痛のようにしくしくとする。

2017年7月10日月曜日

アキレスと亀――B・L・ウォーフ『言語・思考・現実』(1978年)



 原著は1956年に刊行されたもので、1930年代、40年代の論文が含まれている。

 私が学生のときには、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』やドゥルーズ=ガタリがベストセラーになり、『GS』や『エピステーメー』などといった高級思想雑誌が刊行される珍妙な事態が起きていた。いまと比較すると隔世の感があるが、より大きな文脈で考えると、若い世代が思想的なものに飛びつくのが明治以来の通例だったとすると、あるいは最後のあだ花だったことになるのかもしれない。私はこのいわゆるニューアカの世代からは少々遅れていたし、その頃は少々馬鹿にされていたサルトルなどをせっせと読んでいたので、脇目でぼんやり見ていたに過ぎず、むしろ、デリダなどは最近になって読むようになった。

 当時、言語学といえば、圧倒的にソシュールの影響力が強かったが、私はむしろチョムスキーを好んで読んでいた。しかし、その影響の広がりということでいえば、圧倒的な差があって、ソシュールが瞥見した一般記号学を展開して見せたロラン・バルトなどは非常に刺激的だったが、チョムスキーの後継者たちはいたずらに専門的になるばかりで、大量の記号と図式を見るだけでうんざりした。二人とほぼ無関係なところに立つウォーフは、ソシュールのように言語を差異的な体系とみることも、あるいはチョムスキーのように生得的な言語能力を想定することもなく、文化人類学の方法を援用しながら、言語と世界観を直結させるいい意味でも悪い意味でも形而上学的な側面がある。それはある意味、スタニスワフ・レムやストルガツキー兄弟のSFのように異文化、異世界との出会いを描いたものとも読める。

 ウォーフは1897年、ソシュールの40年後に生まれている。根っからの言語学者ではなく、言語学者と名乗ることもなかった。大学卒業後には、火災保険会社に勤めており、そこである種の言語学的な疑問にとらわれたのだという。火災の原因となるものには、もちろん、配線の不具合といった物理的な原因に帰せられるものもあるが、「言語的意味」に関わるものも多いことが明らかになってきた。たとえば、「ガソリン缶」の貯蔵庫の近くでは、十分な注意が払われる。ところが「空のガソリン缶」の貯蔵庫の近くでは、煙草が吸われ、吸い殻が無造作に捨てられる。だが、実際には、揮発されたガソリンが充満した缶は、実際にガソリンがはいった缶よりも危険である。これは「空の」ということが、「無で空虚な、否定的の、不活性の」という意味をもつ世界観のうちに我々が生活しており、同じ「空の」ということが、液体の半端なゴミにも適用されたために危険が生じた。

 言語とは世界観と直結しており、世界観とはいわば方言でしかない。西欧で長らく常識とされてきた形式論理や数学的基礎は、すべての人間にとって共通であり、種々の言語はそれをやや異なった形であらわしているに過ぎないとされてきた。それらの背景をなす空間と時間もまた自明のものとされる。ところが文化人類学的調査によれば、それは必ずしも自明ではない。ウォーフによって有名になったネイティブ・アメリカンのホーピ族の言語によれば、西欧で「客観的」とされ、時間、空間、実体、現実などの名詞であらわされていることは、出来事における「望むこと」とでも訳されうるものの複雑さと強度によって定められる。基本的に過去から未来へ向けて一筋に進む時間に相当する語はない。「望むこと」と「実現すること」だけがあり、植物が芽吹くように、望むことを強度にして空間=時間において実現されていく出来事があるだけである。たとえば、「客観的」には遠くの村で同時に起こった出来事は、いまここで起きたものではなく、後になってはじめて知りうるものであるために、より離れた我々が言う過去のものである。

 この結果、西欧文明にとってはおなじみの次のようなもの、すなわち、
 1.記録、日記、簿記、会計、会計によって刺激され生じた数学。 2.正確な継続、日付、こよみ、系図、時計、時間始、時間単位のグラフ、物理学でいう時間。 3.年代記、歴史、歴史的な態度、過去に対する興味、考古学、過去に自己を投入する態度、例えば、古典主義、ローマン主義。
などは成り立たなくなる。


 言語と世界観とが重なり、人間が言語的動物であることが認められるなら、およそ人間がつくりだし、そこにある種の構造、働きと背景があるものは、言語=世界観の類同物だといえる。そうした類推により、ファッションのなかに言語に似た意味づけを見いだしたロラン・バルトは『モードの体系』を書き、ドゥルーズは運動-イメージと運動-時間という二つの軸によって映画の世界観を解き明かした。しかし、世界が変化するに従い、世界観も変化し、人間の置かれた状況が変われば言葉も変わっていく。バルトにしろドゥルーズにしろ、ファッションや映画の教科書を書いたわけではなかった。彼らが置かれた世界におけるある領域の世界観を描きだしたのであり、アキレスが亀に追いつくことはないのである。

2017年7月9日日曜日

後悔ばかり――奥野信太郎『中庭の食事』(1982年)



 奥野信太郎は1899年(明治32年)の生まれであり、吉川幸次郎と同じく中国文学者であるが、五歳ほど年長になる。吉川幸次郎が儒者を自認する謹厳な学者なのに対し、荷風を愛し、佐藤春夫や久保田万太郎に私淑したより文人、文学者としての側面が強かったといえる。 実際、吉川幸次郎が『論語』や杜甫を中心に業績を積み上げていき、京都大学を根城にして数多くの優れた中国文学者を生んだのに対し、佐藤春夫や久保田万太郎を慕って慶応大学に入った奥野信太郎は特に専門とするものもなく、学派と呼べるものを作りあげることはしなかったようだ。

 奥野信太郎の文学上の仕事としては、佐藤春夫が中国詩を訳した『車塵集』に長文の序を書いたことがある。先年亡くなられた私の大学時代の恩師である和田晃先生は、この訳詩集に対して、奥野信太郎は序文を書く以外の荷担をしたに違いないとおっしゃっていた。酒の席ではあり、私が佐藤春夫にさほど興味がなかったためにどんなことからそうした考えにたどり着いたのか、深く聞いておかなかったのが惜しまれる。このエッセイ集では、「いま読み返してみれば、その稚拙まことに穴でもあれば、はいりたいほどの悪文であるが、佐藤春夫は一言一句も改変することなく、全文をとってこれを用いた。まことに先輩の寛大これより過ぎたものはないといわなければならない。」(「大正文人と中国」)とやや公式的な感謝の念が書かれているのみである。

 そもそもこの本は折々に触れての単文をまとめたもので、議論がどうこうという性質のものではないので、印象に残った部分をいくつか取り出してみよう。

 奥野信太郎にとって維新の歴史に名を残す橋本左内は大叔父に当たる。奥野信太郎の母親が左内の姪であった。つまり、左内の末弟である綱常が祖父であり、この綱常は長い間ドイツに留学し、日本で最初の医学博士となった人物である。森鷗外のドイツ日記を見ると、ドイツでいろいろ鷗外の面倒を見たことが記されているという。

 関東大震災が起こる前のこと、神田今川小路の裏通りには、中国人の経営する料理店や雑貨商などがたくさん集まっていたという。なかに源順号という文房具から乾物まで何でもそろえているよろず屋があった。奥の薄暗いところには本も置いてあったが、ありふれたものしかない。しかし、驚いたのは、店番をしていた非常に美しい十八、九の中国娘が、「杏花天」という中国でも有名な好色小説を読んでいたことである。そこでその頃は持ってもいなかったし、読んだこともなかった『金瓶梅』があるかどうか聞いてみた。すると、ありますよ、と流暢な東京弁で答えて取り出してきた。『多妻鑑全集』という題で、公の目をはばかったものか、そうした題で売られていたらしい。

 中国と日本の幽霊話の相違。日本では幽霊になるに至る過去の因縁について多く語られるが、中国の幽霊話の重点は、幽霊がどんな出現様式を採るかに置かれているという。その様式が変わっており、珍奇であればあるほど上乗な話として歓迎されるという。

 久保田万太郎は、梅原龍三郎宅で、赤貝をのどに詰まらせて死んだが、そこに奥野信太郎も同席しており、、救急車で慶応病院まで付き添った。

 西銀座に『ロンシャン』というバーがあった。十二、三人のホステスがおり、K子という女性が、奥野信太郎の担当になっていた。その娘とたまたま電車で出くわしたことがあった。そして、彼女の口から「先生、聊斎志異って、中国文学のほうでは有名なものなのでしょうか」と聞かれてびっくりする。K子は、古くから『聊斎志異』の研究家として有名なH氏の娘らしいのだ。H氏は三十年近く中国で医業に従事していたが、『聊斎志異』にとりつかれ、多くの資料を集めていた。戦争の状況が思わしくなくなり、日本に引き揚げるとき、駄目で元々と半ばあきらめて集めた資料を日本に送った。ところが、いかなる僥倖か、荷物は無事に届いた。戦後の混乱を乗り切る生活のたつきとして、一括して買い取ってくれるところを探しているという。京都大学やハーバート大学などとも交渉しているらしい。百万という言い値の金策に困り切っているときに、なんとかしましょう、と請け合ってくれたのが東都製鋼の藤川一秋だった。そこで慶応大学に『聊斎志異』関係の一大集成がとどまることになった。少し後の、また別の文章で、H氏というのが平井雅尾という人物であることが明かされている。


 年少の頃から、奥野信太郎の敬慕していた中国詩人は李商隠であったという。「当時わたくしはホセ・マリア・デ・エレディアや、テオフィル・ゴーティエの詩を耽読していた。そしてそうしたパルナシアンの詩人たちの、いわゆる古典にすがる発想を、李商隠の詩を解する上に移して、いささかの安心と得意とを獲得していたのである。」と書いている。ここでまたもや思い出されるのは和田晃先生のことである。先生もまた李商隠をお好きであった。これもまた酒の席であったが、李商隠の詩を朗々と詠じられたことがあった。自らの非才を恥じるのみ、せめて題名だけでも聞いて書き留めておけばよかったものを、うかうかと聞き流し、どの詩であったかいまとなっては見当もつかない。

2017年7月7日金曜日

各人の選択――クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)



 おそらく、最初から最後までナレーションで語られる唯一のクリント・イーストウッドの映画だと思う。しばらくすると、それがモーガン・フリーマンの声だということがわかってくるのだが、ナレーションというのはおおよそ、事の次第を物語るものであり、すでに過ぎ去ったことを語るものであることに加え、抑制された声の調子はどことなくエレジーを唱しているように感じられる。映画が進んでいくに従い、語り手たる彼が、よほどのことがなければ動揺することなく、決して充足しているとは思えない自らの生活をある決断を持って肯定していることがほの見えるに従って、その感じはいよいよ強まっていく。

 リングと練習器具を備え付けただけの倉庫のような場所で、イーストウッド演じるフランキーは、ボクシング・ジムを経営している。フランキーについては、試合中の出血を止めるカットマンとしては伝説的な人物であり、もっとも優秀だという評判を得ている。ボクシングの指導や作戦についても的確なことから、実戦の経験があるとも思えるが、過去について触れられることはない。ただ、疎遠になった一人娘がおり、毎週手紙を送っているが、受け取り拒否で戻されてくること、良き相棒であり、ジムの雑用をこなしているモーガン・フリーマン演じるスクラップは、かつてボクサーであり、フランキーがセコンドについていた試合で、片目を失明したことだけが伝えられる。ジムの稼ぎ頭であるボクサーはすでに世界チャンピオンに挑戦することは可能だが、大事をとって数試合をこなした上で、挑戦しようとするフランキーの方針と対立し、大手のジムに移籍してしまう。

 そんななか、ヒラリー・スワンク演じる女性ボクサー、マギーが入門する。「女は取らない」とすげなく追い返したフランキーの言葉にあきらめることなく、ジムに通い、不器用な練習を繰り返していたのだ。さらに「三十一歳」だと年齢を聞き、「遅すぎる」と再び断り、女性を取るトレーナーを紹介しようとまで申し出るのだが、よほど見込んだものと見え、フランキーでなければだめだと頑なに通い続ける。確かにボクサーとしてはいくらか薹が立っているが、自称するだけの力とガッツとがあることは認めざるを得なくなる。それでは基本だけは教えてやる、と肩入れがはじまり、試合も観客として見ておられず、セコンドにつくことになり、薫陶よろしきを得て連勝を重ね、ヨーロッパ各地へも遠征し、ラスベガスで世界チャンピオンに挑戦するまでになる。そして、ある出来事が起こり、フランキーは選択を迫られることになる。


 実際、フランキーはある選択をするのだが、それに、彼は二十年以上にわたって毎日教会に通い、神父に宗教問答を仕掛けては迷惑がらせているが、スクラッチの試合を、止めることができたのに止めなかったことで、彼の片目を失わせてしまったこと、そのほか、いくつもの罪の意識をもっているようであり、選択に際して神父に相談をするのだが、イーストウッドに特有なのは、宗教に解決を求めないことにある。別の言葉で言えば、悲劇におけるようなカタルシスをもたらしてはくれないのだ。そこに支配しているのは、神、あるいは運命の摂理ではない。根本的な選択は既にマギー自身によってなされている。マギーは、いわゆるホワイト・トラッシュの出身で、幼いときからウェイトレスの生活を続け、家族はボクサーになった彼女を祝福するどころか、自分の生活のことしか考えず、しかも彼女が稼いだ金を貪欲に巻き上げようとする。そんな彼女にヨーロッパの地を踏ませ、信頼の絆をもたらしたのはフランキーだった。それゆえ、マギーは自らが意味を見いだしたものに準じて選択をし、その選択に荷担するようフランキーに委ねるのである。そして、フランキーもそこに見いだした意味に準じて彼自身の選択をする。そこには個人対個人の、社会的、道徳的、あるいは宗教的大義、正義、価値に較べればこの上なくもろいつながりしかない。同じく、最後の場面にいたり、そこにある意味を見いだしたスクラップが、またこの上なくもろい通信手段によって、そして、その意味を受け取ってくれるかどうかは最後までわからないのだが、誰にこの出来事を語っているのかがわかるときに、その意味は宙づりのまま観客に差し出される。