2015年9月8日火曜日

仮象と実在

前ソクラテス派の哲学者は、世界を構成しているのが水や原子だとした。しかし、それは世界をあらわれ、あるいは現象と実在との二層に分けることになる。我々が世界として知覚するものには、実際には水の姿をしているわけでも、分子構造が感じ取れるわけでもない。つまり、いま見ている世界は仮象であり、その奥底には本当の実在がある。

パルメニデスのように、一者から世界ができているとすると、水や原子とは異なり、具体的なイメージをつかめないものであるから、一者そのものを説明しなければならなくなり、無限後退に陥る危険もある。

また、ある種の転換が行われ、仮象という言葉があらわしているように、知覚によって容易に変化してしまうものがいわゆる現象であり、知覚(各人間によって異なり病気や薬物などによっても容易に変化する)によって影響を受けないものが実在だとされる。しかし、実際には、知覚によって影響を受けない、変化しないものが実在だというのは何を根拠にしているわけでもない。それは、美であるとか正義、あるいは神といったものを永続的に変化しないものとせざるを得ない要請から生まれたものでしかない。

同時に、知覚よりも理性が上位におかれるということもある。というのも、知覚は単に変化を見て取るだけのことであり、そこに法則を読み取るのは理性であるからだ。そして、理性は三段論法のような論理に従い、やはり永続的で変化しないものに仕えるものだとされた。つまり、宗教、科学、形而上学と、それに対になった神、法則、実在が知覚、変化、仮象を抑圧するのが西欧思想の歴史なのだといえる。

スピノザは現象と実在の二元性を廃棄して、世界そのものが神のあらわれであり、知覚の対象は神という全体性の変容なのだとした。言い換えれば、世界は二つの見方ができる。一方ではごく日常的な知覚の絶え間のない変化とみることもできるし、より神秘主義的に(スピノザ本人はそれほど神秘主義的ではないが)あらゆるものを神の顕現とみることもできる。つまり、神という要素が残っていることで、存在論的に二層であった世界が一元化されたものの、認識論的に二層に分かれたともいえる。


自然を前にしてある種の荘厳さを訴える詩は枚挙にいとまがないが、その荘厳さを神とも永遠とも結びつけないことが可能なのだろうか。

2015年8月16日日曜日

はっとする瞬間

 デヴィッド・ブラッドリーの『マンドラの狂人たち』というアメリカ映画を見る。1960年代前半の作品だが、モノクロである。首だけになったヒトラーがまだ生きていて、性懲りもなく、新たに開発された毒ガスを使って、世界の滅亡をはかろうとする。

 なんの面白みもない映画だったが、不思議なことにモノクロだと、キッチュなものが本物らしく見えるふとした瞬間がある。特に、車などの滑らかな光沢が出てくると、ルビッチ的、フェリーニ的にも思われ、ここで監督が替わってくれたら、と思うがもちろんそんなことにはならない。

 もともとが複製芸術の、しかもなんでもない場面なので、アウラの残り香ということはないだろうが、骨董でいう時代がつく感じともまた違っていて、対照的に思い起こすのは日夏耿之介が編集した雑誌『奢灞都』のことである。もちろん日夏耿之介の趣味で統一されているから、一定の水準には達しており、内容的に嫌いなはずもないのだが、はっとする瞬間がないのだ。

2015年8月12日水曜日

何か物足りない――カート・ヴォネガット『母なる夜』


第二次世界大戦中、ドイツで放送活動に携わる一方、放送を通じてアメリカに情報を送り、いわばスパイとして働いていた男の、戦争が終わってからの悲喜劇。

悲劇というのは、彼がアメリカのために働いていたことは、三人しか知らず(一人は死亡している)、アメリカやイスラエルからは裏切りものとしていつでも追い回される危険があるからだ。

喜劇というのは、ヴォネガット特有のことだが、また彼に影響を受けた村上春樹にも特徴的なことだが、深刻な内容がごく軽いタッチで描かれているからだ。深刻なことを軽いタッチで描くことには食傷気味である。

ダンディズムはいまでも惹かれるから奇妙なのだが、このポーズというのは、ダンディズムとも吉行淳之介的なデタッチメントとも異なっていて、ユーモアとも微妙に違い、どちらかといえばスノビズムという言葉に一番近いように思う。

2015年8月11日火曜日

ラジオ・デイズ――ロバート・アルトマン『ボウイ&キーチ』(1974年)


ギャング映画のサブジャンルとでもいえるものに、銀行強盗映画がある。やくざ映画のサブジャンルにチンピラ映画があるようなものだが、銀行強盗映画が男女の破滅的な愛に向かっていくのに対し、チンピラ映画は同じく破滅的といっても、ホモ・エロティックな雰囲気が濃厚である。
その点で、やくざ映画のサブジャンルであるとともに、任侠映画の再解釈ともいえるかもしれない。銀行強盗映画は、ギャング映画のサブジャンルであるとともに、恋愛映画の再解釈ともいえるかもしれない。
恋愛映画が苦手な私は、『拳銃魔』などの例外はあるものの、銀行強盗映画も苦手なのだが、アルトマンがべたべたした恋愛を描くはずもないので、『ボウイ&キーチ』(1974年)には特に叙情的な部分はない。原作者がエドワード・ロビンソンで、ニコラス・レイの『夜の人々』と同じ、つまり、リメイクになるわけだが、恥ずかしいことにレイの方は見ていないので、どんな相違があるのかはわからない。しかし、題名だけから判断すると、レイの映画はよりフィルム・ノワール的であるようで、アルトマンの映画ではほとんど常に日の光が差している。
そして、なによりも、これもまた常に背景に流れているラジオが印象深く、ウディ・アレンの『ラジオ・デイズ』のようにノスタルジックでもなく、むしろラジオの音声という地、層が一枚加わった世界像を提示しているかのようだ。

2015年7月17日金曜日

幻惑的な直喩――円地文子『小町変相』


 『大言海』によれば「すげむ」とは、「年、老イテ、口、歪ム。又、歯、疎ナリ。」とあり、滅多にみない言葉であるが、案の定、用例としてあげられているのは、円地文子もまた現代語訳した『源氏物語』からだけである。しかし、辞書を引く前から、なにかおどろおどろしい雰囲気は漂っている。

 麗子の微かなすげみをみせた唇から毒々しい言葉が吐き出される時、曖昧な窪みをただよわせた頬のあたりには濃いなまめきが滲んだ。 夏彦の肌が縮んだ。その鮫立ちの一つ一つに麗子の吐く濃い息吹がふきつけられているようであった。 「夏彦さん」 たぐり寄せるように麗子の手が夏彦の肩にのびた。 「夏彦さん、あなた、私をお母さんに勝たせてくれる?私をもう一度女にしてくれる?私、あなたのなかのお父さんにもう一度逢いたいのよ」 夏彦はふるえていた。肌の粟立ちが頬までのぼって来て、口の中で歯がかちかち触れた。 「寒い!」 と彼は言って、麗子の絹漉し豆腐のように軟らかい手を払いのけた。しかし手は彼の力ない拒絶をおしのけて、まるでところてんのようにするすると滑り落ちながら、彼の肩に胸にまつわりついて来た。『小町変相』

 老いているから歪んでいるのか、歪みが老いを垣間見させるのか、腐りかけのものがもつデカダンスがにじみでている。

 しかし、それよりも感心したのは、豆腐とところてんの直喩である。もともと直喩というのはさして重要視されない。現代作家では私の気づく限り、安部公房や村上春樹は意識的で工夫をしているが、それ以外は思いつかない。

 そもそも隠喩と比較して直喩が軽視されがちなのはいまに始まったわけではなく、既にアリストテレスは、隠喩よりも長くなるし、隠喩のように「~は~である」という新たな観点を引き入れるわけではないので、それ以上精神を喚起することがないゆえに、より関心を引くことがないとしている。

 だが、むしろいま、より困難なのだといえるのは印象的な直喩だろう。凡庸な直喩はエンターテイメント作品のように雰囲気を醸成し、文の累積のなかで消費されていけばすむが、「文学的」あるいは「詩的」であることを目指して直喩に向かうことは、よほど鈍感か、自覚的であるしかない。

 円地文子の文章は、困難な行程を見事に乗りこなしている。というのも、手が絹漉し豆腐だという隠喩であったなら、あまりに容易に崩れてしまう豆腐と身体のなかでももっとも器用でしなやかな手を並置することは、さほど印象的だとは思われなかっただろう。つまり、この比喩を輝かせているのは、手が豆腐やところてんのようであっても、決して実際には豆腐やところてんではないという点であり、直喩の「のように」という言葉こそが胆となっている点にあるのだ。

2015年7月14日火曜日

超自我と声



 声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。

 発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。

 自分が視覚的な人間なのか聴覚的な人間なのか、よくわからない。もともと人間関係については記憶力に欠けたところがあって、大学時代の同級生さえあまりおぼえていないのだが、場所にまつわる記憶は鮮明で、夏をよく過ごした街などは歩く速度で端から端まで追体験できる気がする。こうした記憶はもちろん、視覚的なものだといえるだろう。

 しかし、親しい友人や亡くなった人物のことを思い返すと、顔はぼやけ、むしろ声だけがよみがってくる。もともと、子供のころにテレビがないほどの旧世代ではないが、ラジオで育ったことは確かで、特にTBSの『一慶・美雄の夜はともだち』は大好きで、なかでも渥美清のローマンス劇場、夜のミステリーは印象的で、夜のミステリーはいまではほとんど放送されなくなってしまったラジオ・ドラマで、『世にも奇妙な物語』やそのもともとをいえばアメリカの『トワイライト・ゾーン』に連なるような、推理もののミステリーではない、後に「奇妙な味」といわれることになるようなもので、鈴木清順なども原作者として名を連ねていた。

 『オールナイト・ニッポン』の黄金期にはもちろん夢中になったが、情けないことに大体が寝落ちしてしまい、最後まで聴いたのは数えるほどしかない。

 フロイトの超自我は、自我に対して道徳や倫理を要求し、しかもそれは一般的な道徳観と必ずしも一致するとは限らない。そしてまた自我に対する支配力を楽しみはじめる。ヒッチコックの『サイコ』などはその典型的な例であろう。

 だが、私自身には超自我が声と重なるという実感はさほどない。命令することもされることも嫌いだし、怒鳴り声や、そもそも大声自体が好きではなく、幸運なことに強圧的な声と命令とが重なることがなかったこともあるかもしれない。入院したときに幻覚をみたことがあるが、幻聴はいまだに経験したことがない。

鈴木清順『夢二』


 鈴木清順の大正ロマン三部作といわれるもののなかで、『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』は何回見たかわからないが、『夢二』はそれほどではなく、それでも5,6回は見ているだろうか。今回改めて見直してみて、もちろん十分面白いものではあるが、前二作には至らないと改めて感じた。

 ひとつにはあまり開放感がない。室内のシーンが多く、外にでても、金沢の山中であるので、密閉感がある。それゆえ運動感がない。『ツィゴイネルワイゼン』の原田芳雄や藤田敏八は常に歩いていたし、『陽炎座』の松田優作も必死の形相で歩きまわったものだが、夢二役の沢田研二はどちらかといえば寝ころがっているだけなのだ。『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花のいくつかの作品が組み合わされていたが(脚本は三作とも田中陽三)、『夢二』には原作といえるものがあるのか、実生活のどの程度の挿話が取られているのか、ロケーションや伊藤晴雨の元モデル、稲村御舟といった人物が実際に関わりをもったのか、夢二そのものにはさほど興味がない私にはよくわからない。

 俳優が毬谷友子にしろ宮崎萬純にしろ、沢田研二にしろ坂東玉三郎にしろ、軽やかすぎる。清順的登場人物といえば、『ツィゴイネルワイゼン』でいえば藤田敏八、『陽炎座』でいえば中村嘉葎雄、そしてなんといっても大友柳太郎といった存在自体が画面にわだかまるような人物がもっとも魅力的なのだが、『夢二』にはそうした人物が登場しない。ちょうど核となるオブジェ、イメージが『ツィゴイネルワイゼン』の骨、『陽炎座』の酸漿であるのに対し、紙風船というふわふわした情緒的なものなのも残念。

 広田玲央名は『陽炎座』でいえば加賀まりこの役割なのだが、いかんせん貫禄が不足している。もっとも大きな漬物樽につけられる場面は面白かった。