2014年3月29日土曜日

ブラッドリー『論理学』19

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

 §19.私は魂のより低次の形式、あるいはなんらかの形式が単純な感覚の把持だけに制限されていると言おうとしているのではない。魂が与えられたものになにもつけ加えず観念化もしない受動的な容器だとしても、実際の心には更に進んだ段階があり、我々は常に感覚を通じて与えられたもの以上のものをもっている。いわば、印象というのは、観念的構築物によって補われ変更されており、それが過去の経験の結果をあらわしている。かくして、ある意味で、もっとも低次な動物でも判断し推論しているのであり、そうでなければ、彼らは行動を環境に調整しないに違いない。しかし、厳密な意味では、彼らは推論もできなければ判断もできない。というのも、彼らは観念と知覚された現実とを区別しないからである。

 実際の事物と知覚にあらわれるものとが同一ではないことは、我々がみな気づいているように、非常に遅れて知られることである。同じ時期ではないにしろ、同じように遅く知られるのは、観念と印象にはある種の差異があるということである。より原始的な心にとっては事物はあるかないかであり、事実であるかなにものでもないかである。事実は存在するかもしれないし、仮象であるかもしれない、それ自身ではないなにかの真実であり、それに属しているのかもしれない。また、幻影であるかもしれず、その内容がそれ自体にも他の実在にも属していないため、存在はしても間違っているかもしれない--これらの区別は初期の知性にとっては不可能である。非実在物は了解できるようななにものでもなく、間違いとは決して幻影ではない。それゆえ、こうした精神にとっては、観念は決してシンボルとなることはできない。それはそこに存在する事実である。

2014年3月28日金曜日

吉田健一とバルトのユートピア的な酔い――ノート10






 『鬣』第34号に掲載された。

 吉田健一の短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。

 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。

 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。

    それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。

 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。寅三は占領軍相手の仕事をしているが仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。

 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。

  寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。

敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。

それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。


 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。

 〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。

 トルストイ、ルソー、ベンヤミン、ボードレール、ブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子と道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ『戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。

    他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。

 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

2014年3月27日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』15

霧に舟牽く人はちんばか  野水

 ちんばは跛脚である。古解に、「石混じりの場所に落葉して、霧雨に濡れたところを滑りながら行く人を見て、ちんばひくかと笑うさまだ」というのはよくない。これはただ、柳葉が力なく落ちる秋の岸で、霧のなかに舟を牽く人の姿を見て、ちんばのように見えるという景色をいっただけの句である。足場が悪いとか、滑っているのを笑うといっているのは、舟を牽く人の様子をよく知らないで、この句の真を伝え、妙をなすところをわかっていないことからくる勝手ないいようである。

 人が陸の上にいて、舟を牽いて流れをさかのぼると、水の上の舟は岸に触れて前に進まなくなる。であるから、舟を牽く場合、舵を操って舟を牽く人の反対の方に進むようにしておく。そうすれば結合力の法則により、舟は岸にも触れず、川中にもでず、陸に沿ってまっすぐに進む。それゆえ、引き縄が短いと力がうまく相殺しないので、なるべく長くするのが習慣で、それゆえ中国ではこの縄のことを百丈と呼んでいる。そうであれば、舟を牽く者は長い綱の先を輪にして片方の肩にかけ、流れの力と舵の水を切る力との抵抗を受けながら進むので、身体がねじれたようにしていく、そのさまを舟から見ると、距離はあるし、牽く者は身を屈み曲がっているので、跛脚の人にも思えるのである。それを巧みに言いあらわしたのがこの句で、霧の一字に距離の程度も景色も見え、ちんばかの言葉に活動のさまも姿形も見える。それを霧に滑るなどというのは残念な理解で、行き届いた解釈ではない。前句の水のほとりの柳、この句の霧に行く舟、付け味は言わなくても明らかである。

2014年3月26日水曜日

蜘蛛と女性の幽霊————スピノザ



 『鬣』第34号に掲載された。

書簡は書いた人間の息づかい、固有の生活様式、外見だけではわからない癖や他人との距離の取り方などを窺わせてくれるところに魅力があるのだが、スピノザの書簡集にはいささかそうした魅力に欠けるところがある。

というのも、スピノザの手紙の宛先が個人であっても、その人物を代表とする同好の士に回覧されることが当然のこととして前提されていたからである。つまり、手紙とはいってもなかば公的なものであり、それゆえ話題がプライベートにわたる場合には、他人に見せるようなことはしません、とわざわざ断られている。

とはいえ、著作には見られないようなスピノザの人間性がまったくうかがい知れないというわけではない。たとえば、知性が見いだしたものと聖書とが齟齬するような場合、知性を取るのが哲学者だとするスピノザは、聖書の権威を振りまわすブレイエンベルフなる人物に対し、私はあなたを哲学者だと思っていたがそうではないらしい、従って私たちが啓発しあうことなどはないでしょうし、私の手紙はあなたになんの益にもならぬわけだから文通などやめましょう、ときわめて強い口調で書き送っている。

おそらくは、花田清輝の『復興期の精神』にあるスピノザについての文章が記憶に残っているせいか、スピノザといえば、驢馬を水槽と秣桶の間に置くと、自発的な選択のできない驢馬はどちらから手をつけていいものか立ち往生してしまい、最後には餓死にいたると説いた「ブリダンの驢馬」が思い起こされ、なにかこうした強い断言的な口調とスピノザとが結びつかないのだ。

もっとも、不可解なスピノザと言えば、哲学に専心していたスピノザには趣味らしき趣味もなく、ただひとつ蜘蛛を飼い戦わせることを楽しみにしていたというのだが、ものの本によると、それを見て涙を流すまで笑いころげたというエピソードがあって、どちらが勝つかといった興奮やある種残虐な本能の満足ならわかるが、笑いが発せられることにはなにか奇妙な経路を感じさせる。

なかば公的なものとはいっても、書簡には相手がいるというのが、著作とは大きく異なることであり、自分にはさして興味のないことでも、聞かれれば答えねばならないことにもなる。オランダのゴルクムで政治に関係していたフーゴー・ボクセルとの往復書簡はみな幽霊に関するもので、ボクセルが幽霊の存在を主張するのに対してスピノザが反駁する。幽霊は子を産むことがないので女性の幽霊は存在しないとするボクセルの説に対するスピノザの言葉はどこか蜘蛛の戦いを笑うのと同じ経路を感じさせる。

    実際もしそれが真に貴下の御意見でしたら、それは神を男性と見て女性とは見ない一般民衆の想像とよく似ていると思います。裸の幽霊を見た人々が目をその性部に向けなかったことを私は不思議とする者です。それは恐怖のためだったでしょうか、それともこの区別について何も知らないためだったでしょうか。(畠中尚志訳)

2014年3月25日火曜日

ブラッドリー『論理学』18

 第一巻判断第一章判断の一般的性質から。

III.§18.我々は判断について予備的な考察をし、いくつかの誤った考え方を取り除こうと努めた。ここでは三番目の仕事として、この機能の発達について述べなければならない。既に明らかにしたように、判断は心的進化のあらゆる段階において姿を現わすわけではない。精神が比較的遅く得るもので、成長期にあらわれる。それを人間と動物知性の境界をなすものととることは恐らく誤りだろう。どちらにしろ、我々は軽率にも神学的、そして反神学的偏見の領域に踏み込むこととなろう(第三巻第一部第七章を見よ)。精神を諸段階を通じて進歩する単一の現象として扱い、異なる動物をまたいだり区切ったりすることでこの進歩を線引きするような議論は避けたほうがいい。かくして、判断は、ある段階においては存在せず、よりあとの段階において働いていることは確かである。どこにこの移行があるかについては問うことなく、こうした段階の対照を指摘するだけで満足することにしよう。この脱線が我々が既に与えてきた判断についての考察をより際だたせることになろう。というのも、判断は真と偽、そしてその相違が知られていないところでは不可能だからである。そして、この相違は、観念が観念として認められておらず、心に事実以外の何ものもないところでは知ることができないものである。

2014年3月24日月曜日

山なみを遠望する──加藤郁乎『俳の山なみ』


 「鬣」第33号に掲載された。

 もし色々な面でより余裕があったなら、そしてもっと大事なことだが、わたしの俳句に対する情熱がずっと強いものだったら、この本を俳書を集める手引きとすることだろう。三つの面でこの本は興味深く参考になった。

第一に、その小説や戯曲や批評にはいくらか親しんでいるものの、俳句についてはまったく知らなかった文学者の違った側面を教えられた。内田百閒や永井荷風の俳句は読んでいたが、岡本綺堂、巖谷小波、田中貢太郎、日夏耿之介の俳句をこの本ではじめて知り、そのすばらしさに眼を見張った。

  水神の山車魚河岸を出でにけり  岡本綺堂
  神田川南も北も祭かな
  昼もねて聞くや師走の風の音
  川々の橋々柳々かな       巖谷小波
  しんなりと女寝(いね)たり遠千鳥    田中貢太郎
  煙突は線香に似て霞みけり
  秋一夜壺のなかなる龍を琢(ウ)つ   日夏耿之介
  猫てらや雲間にかすむろくろ首

 第二に、かねてから名前を聞いており、気になっていた人物について手がかりを与えてくれている。ジッドやクローデルの翻訳家である山内義雄のエッセイではじめて知った岡野知十、内田百閒の俳句の先生である志田素琴、久保田万太郎や徳川夢声が参加した「いとう句会」の生みの親である内田誠、幸田露伴の文章にしばしばその名の見える沼波瓊音などがそれである。

  ゆく春や小袖にのこる酒のしみ  岡野知十
  すしの味殊に彼岸のあとやさき
  寺多き山谷あたりや片時雨
  二階から呼びかけられし日傘哉  志田素琴
  ふところに菓子の包みや路うらら 内田誠
  山吹やさす日静にまたくもる
  虫の音の駒形あたり小提灯    沼波瓊音
  蚊柱や緑雨の住んだ家を見る

 第三に、わたしにはまったく未知であった場への扉を開け、広大な俳句の世界を垣間見させてくれた。

  行年や夕日の中の神田川     増田龍雨
  坂一つ四谷はちかき月夜かな   小泉迂外
  春寒の言問橋を渡りけり     下島空谷
  猪(ちょ)牙(き)船(ぶね)の進水式や春の水     大野洒竹
  荷風黴び潤一郎黴び露伴黴び   池上浩山人
  横町に横町のあり秋の風     澁澤澁亭

などとてもすべてはあげられない。惜しむらくは、読んでみたいと思っても、気軽に手に入れられる本がほとんどないことで、自らの余裕と熱意の足りなさに恥じ入りつつ、加藤氏の更なる開拓、紹介を待つことになる。
      

2014年3月23日日曜日

狆の名称

大田南畝の『俗耳鼓吹』から。

○この頃の狆の名として見せてくれたのを見ると、
  壱まい黒  一まい白  白黒ぶち  目黒  鼻黒  赤ぶち 栗ぶち  かぶり  むじな毛  耳は大耳べつたりだれ  毛なが  毛づまり  当せい  上田すじ  こくすじ  治郞すじ  小田すじ  大島すじ