2015年12月14日月曜日

貫禄とスペインの夜

ペドロ・アルモドバルの『抱擁のかけら』(2009年)を見る。

アルモドバルを見るのは2本目だが、あまり物語の語り方がうまくないのではないかと思う。

話の基本は狂気の愛を加味してあるが、ごく典型的な三角関係の物語で、過去、つまり本筋の話の前に3~40分の前置きがあるが、特に必要性は感じられない。

多分に好みの問題でもあるが、運命の女がペネロペ・クルスというのもあまり説得力がなく、デートリッヒでもスタンウィックでも、クラウディア・カルディナ―レでも、京マチ子ほどでなくともいいが、もうちょっと貫禄が欲しい。

フェリーニにしろ、ダリオ・アルジェントにしろ、ソレンティーノにしろ、イタリアの夜は非常に好きなのだが、スペインの夜のシーンがあまり魅力的でないのも期待外れに終わった。

2015年12月13日日曜日

アメリカ刑事ドラマのセレブもの

アメリカの刑事ドラマには、サブジャンルとして、セレブものがある。

古くは『刑事コロンボ』、いまでいうと『メンタリスト』が当てはまる。

バディ・ヴァン・ホーンの『ダーティ・ハリー5』(1988年)もそのなかに加えていいだろう。

1から5まで、シリーズものというと大作化していくのが多いのに、どれもみなこぢんまりした映画に収まっているのはさすがイーストウッド。

いま見ると、小ネタが多く詰まってもいる。

ホラー映画の監督を演じているのがリーアム・ニーソンだったり、TVキャスター役のパトリシア・クラークソンはソンドラ・ロックそっくりで、好みが一貫してるなあ、とか、女性の映画批評家が惨殺されるのは、イーストウッド映画に悪口ばかり描いていたポーリン・ケイルに当てつけたのだろうし、爆薬を仕掛けたリモコン・カートのカーチェイスの場面はいまだったらドローン相手ということになるのだろう。



2015年12月12日土曜日

ナノ・テクノロジーと想像力

スティーヴン・ソマーズの『G.I.ジョー』(2009年)を見ていて、途中で一度見ていることに気がついた。

アメ・コミはもともとさほど興味がないこともあって、どれがどれやらごちゃごちゃになっており、バッドマンは多分映画化されたものはすべて見ていると思うが、それでも、ジョーカー、だとかツー・フェイスだとか、怪人たちが、どんな順番であらわれるのか、とか、協力したりするのかと細かいことになるとまるでわからない。

この映画では、これもまた名前はよく聞くが、具体的にどんなものなのかよくわからないナノ・テクノロジーの兵器が登場して、エッフェル塔を倒すのだが、もちろんそんな兵器が将来可能になるのかどうか全然わからないが、都市にしろ、インターネットにしろ、想像力が働く方向にテクノロジーが発展していくことは確かであって、絵空事とはいえないのが無気味なところである。

2015年12月11日金曜日

蹴りと無意識

酒の飲めない平岡正明が、仲間たちと旅行に行った際、つい一杯飲んでしまい、既に極真空手に通っていた頃で、突然目をさますやいなや、奇声をあげて目にとまった人物に蹴りを入れたことを恥じ入る文章をどこかで書いていた。

酔態が恥ずかしかったわけではなく、作家だけに手と意識とは直結していることを感じるが、蹴りというのは無意識の占める部分が多く、稽古でも蹴りを繰り出すことに抵抗感があったのに、こともあろうに慣れぬ酒を飲んだとはいえ、日頃の訓練では躊躇していた蹴りをいの一番に繰りだして、いわば無意識を無防備に晒したことを恥じたのだった。

もっとも横山一洋の『ハイキック・エンジェルズ』(2014年)となると、少なくともヒロインの一人は蹴りが中心なのは、題名が示しているとおりで、ドラマはむちゃくちゃだし、売りのアクションも『チョコレート・ファイター』などと比較すると残念な仕上がりだが、それほど酷評したくないのは、なにがしたいのかはっきりわかるし、目的がわかるから、それにどれだけの労力と資金が必要なのかまではわからないが、より目的に近づいた姿も想像できるからで、なにがしたいのかさっぱりわからない超大作などよりはずっといい。

2015年12月10日木曜日

現実暴露と詩的なもの

『ニューヨーカー』や『タイムズ文芸付録』のようなアメリカやイギリス(多分ヨーロッパ中でそうなのだろうが)のちょっと洒落た雑誌には必ず詩が載っている。

日本の新聞にも俳句と短歌が載っているが、読者からの投稿によるもので、プロの俳人や歌人が必ず掲載されるスペースが与えられているのかどうか、よく知らない。

文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。

とアドルノは書いたが、言い換えれば文学と詩的なものが同じ土俵の上にあることを意味している。

そうでなければ、ベケットが詩的なものを台無しにすることもないはずだからである。

ベケットをモダニストとして扱うなら、日本にモダニズムは存在したのだろうか。



2015年12月9日水曜日

ビリー・ワイルダー『お熱い夜をあなたに』

ビリー・ワイルダーの『お熱い夜をあなたに』(1972年)を見る。

ジャック・レモン演じるアメリカの大物実業家は父親が、イタリアのイスキア島(ヴェスヴィオス火山の近くらしい)で交通事故にあって死んだと聞いて、やってくる。

彼は父親がイギリス人婦人とそこで毎夏を過ごしていたという秘密を知る。

同じ事故で死んだそのイギリス婦人の娘もまた母親の死を聞いて駆けつけてくる。

彼女は二人が毎夏そこで逢い引きをしていたことも知っており、悪いことだとも思っていない。

息子の方は不道徳だと怒り、身に染みついた効率主義から、イタリア人の怠惰に憤り、いらいらしてばかりいるのだが、やがて、彼女の魅力に惹かれるようになり・・・

異文化コミュニケーションにまつわるコメディーで、効率第一で、ピューリタニズムに凝り固まったアメリカ人と、ロマンティックなものを無条件に受け入れてしまうイギリス人、怠け者で小ずるいところもあるが、基本的にはおおらかで、細かいことは気にしないイタリア人、と類型的なのはコメディーの常道である。

邦題が重すぎて損をしている。

原題のAvanti!はイタリア語で、ホテルでノックがあったときの、「お入り」くらいの意味だから、「お入り」ではさすがにちょっと題として不安定なので、「どうぞ、お入り」くらいでいいのではないかしら。

イギリス人の役は実際にイギリス人女優であるジュリエット・ミルズが演じていて、豊満で、ダイエットのためにカウンセラーに通っているという設定だが、ちょうどいい肉づきで、好み。

フィルモグラフィーを見たら、イタリアン・ホラー『デアボリカ』に主演していて、うわっ、『デアボリカ』にでてるじゃないか、と思ったが、見たことは確かなのだが、内容がまったく思い出せない。



2015年12月8日火曜日

価値の転倒と混沌

フロイトは声と超自我を結びつけた。

超自我とは自我を監視し、間違った方向に行かないように命じる。

道徳的な法、倫理などがそれで、良心の声という慣用句にそのことがあらわされている。

道徳的な法や倫理は意味をもつ象徴であるから、当然その反対の意味も暗黙のうちに含まれている。

汝、殺すなかれ、は汝、殺せ、と薄い膜で隔てられているにすぎない。

価値の転倒は重要なことだが、価値の混沌は恐ろしい。

安部首相が述べた無意味な三本の矢からヘイト・スピーチまで、みられるのは混沌である。

グローバリゼーションという言葉が使われはじめて、もうかなりの年月がたつが、これほど無意味に使われている言葉もない。

グローバルといっても地球単位で考えているものはほとんどなく、たかだか「先進国」の経済の問題がいわれているに過ぎない。

かつて、ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』で、インドの貧困を解決するには(現在でいえば、南半球の貧困ということになろう)、アメリカが(現在でいえば、いわゆる「先進国」ということになろう)その富を無償譲渡すればいいと言った。

これこそまさに価値の転倒であり、グローバルな思考である。