2015年12月7日月曜日

食わず嫌い

食わず嫌いの監督がいる。

私の場合、たとえばウディ・アレンで、もっとも完全な食わず嫌いというわけではなく、『アニー・ホール』だけは公開時に見ているから、多少は口にしているのだが、それ以来なんとなく敬遠してみていなかったのだが、数年前に20本くらいまとめてみて、嫌いではないが、大好きな映画はないという状態にとどまっている。

スパイク・リーもまたそうで、こちらは少しも口にせずに過ごしてきたが、最近10本くらい見て、やはり嫌いではないが、大好きな映画もないという状態にある。

アルモドバルもそうした監督の一人で、なんとなく騒々しい子犬が吠えるような映画であるような気がして、敬遠していた。

そんなアルモドバルの『私が、生きる肌』(2011年)を見た。

勝手な思い込みとは違い、特に騒々しい映画ではない。

人工皮膚の権威が主人公なので、安部公房の『他人の顔』のような話かな、と思ったらそんなことはなく、その医者が自宅の一室に美女を監禁しているところから映画は始まる。

そこから過去にさかのぼり、恐怖症で人前に出られない娘をレイプした犯人に対する復讐劇へと転じ、医者を演じているのがアントニオ・バンデラスだものやはりそういう方向へ行くわな、などと思っていると、倒錯的な愛の物語となり、それで完結すると思いきや・・・

嫌いとまではいかないが、多様なテーマを盛りこみすぎて、消化不良になっているようで、判断保留。

2015年12月6日日曜日

地獄の釜が煮え立つ感じ

アマゾン・プライムで、古澤健の『アナザー Another』(2011年)を見る。

最初は『学校の怪談』のような話だが、中盤から『ファイナル・デスティネーション』のような展開になる。

ヒロイン役の橋本愛は、『あまちゃん』のときも思ったが、かわいいのかそうでもないのか、よくわからないぶれた感じが妙に印象に残る。

しかしそれよりも、久しぶりに銀粉蝶を見られたのが嬉しかった。

若いころに『ブリキの自発団』の舞台を見ているので、銀粉蝶といえばいまでも私のなかでは『ブリキの自発団』の銀粉蝶である。

李礼仙は状況劇場の李礼仙であり、若くして亡くなってしまったが、深浦加奈子は第三エロチカの深浦加奈子である。

森繁久弥も勘三郎(まだ勘九郎だったが)も藤山寛美の舞台も見ているが、それほど強烈な印象を残していないのは、テントや小劇場の閉塞感のなかでぐつぐつ煮え立つような感覚が大劇場では味わえないものだからだろう。

2015年12月5日土曜日

平賀源内、『放屁論』、水木しげる

平賀源内の『放屁論』を読んでいて思い起こすのは落梧の『あくび指南』で、放屁を見世物にするのもバカバカしいが、あくびを習うのもバカバカしい。

しかし、バカバカしさにおいては落梧の方がいささか勝っているようだ。

『放屁論』では両国橋のたもとで、幟を立て、様々な屁をこき分ける見世物を見たある男が腹を立て、品川、というから女郎屋なのだろう、ある女が客の前でおならをしてしまい、恥じのあまり自害しようとするのを仲間や客が必死になだめたという例を引き、屁などは自宅でひそかにするものなのに、公然と見世物にして恥じないとは何事か、と憤るのだが、源内の意見を代弁するかのような男がそれに反論し、世の中に下品なものは数あるが、一等下品であると思われる糞尿でさえ、畑の肥やしになり、人々の役に立っているが、屁だけはなんの役にも立たない無用の長物、そのとことん役に立たないものをいっぱしの見世物にまでしたのだから、立派なものではないか、無用なものが芸にまでなるのだから、有用なものをとことん工夫できる者があるなら、世の中はずっとよくなるだろう、と文明論にまで踏み込むことでいささかバカバカしさを損なっているのだが、そこまで話を大きくするバカバカしさは十分魅力的なので、いい勝負ではある。

そういえば、荻上チキのラジオ『Session-22』で、水木しげるの追悼番組をしたとき、ゲストの呉智房が話していたが、水木しげるは「屁を二尺した」(三尺だったかな)というような表現をしていたそうだ。

『放屁論』後編の「跋」では、屁の音には三種類あり、プッとなるのが一番品があって形が丸く、ブウとなるのが次にきて、形は米びつのようであり、スーとすかすのが一番下品で、細長く少し平たい、とある。

水木しげるにも江戸の風が吹いていたのだろう。


2015年12月4日金曜日

貧弱な記憶力のありがたさ

マイケル・マンの『ヒート』(1995年)を見る。

公開時に見て、実に久しぶりに見直したので、おそらくは『スカーフェイス』などとごっちゃになってしまっているのか、マフィア対警察ものだと記憶していた。

あに図らんや、恐ろしく頭の冴えた強盗団(デ・ニーロやヴァル・キルマーなど)とロサンゼルス警察を指揮するアル・パチーノとの対決を描いたものだった。

記憶力が貧弱なのはありがたいもので、ほぼ三時間に及ぼうとする映画の中盤になっても、どんな展開になるのかまったく思い出せなかったので、初見のように楽しむことができた。

ところで、いつも重宝に使わせてもらっているので、文句をいう筋合いでもないが、データベースのallcinema日本版の解説ではこの映画が随分批判的に「解説」されている。

批判的なのは結構だし、すべての映画を一人が見ているとは考えられないから、おそらく数十人、数百人が関わっているのだろうが、せめて頭文字でも、数字でもなんでもいいから、どの映画について誰が書いているのかわかるようにしてもらいたい。

ほとんどの映画の「解説」は、あらすじを述べるようなものばかりなので、たまに批判的な「解説」に出くわすと、よほどつまらない映画なのかと思ってしまう。



2015年12月3日木曜日

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』!!!

レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』(2012年)を見る。

初見、傑作。

『ポーラX』はまだ見られないでいるが、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』と見て、まったく個人的な趣味の問題だが、趣味だから変えようはないわけで、あまりに恋愛的な要素が強いのに辟易していて、昔ながらのハリウッド映画のように、仲間意識を持っていた二人が、あるいは対立し合っていた二人が、最後に愛情を確認して終わるタイプの映画が大好きなためか(ホークスやヒッチコックやアステア=ロジャースの映画のように)、愛となるとThe Endの文字が浮かんで、愛し合う二人を描かれると、まだ終わらないのかとついつい思ってしまう私にとって、要するにカラックスは苦手だったのだが、まさにこんな映画を撮ってもらいたかったとついつい興奮したのが『ホーリー・モーターズ』だった。

豪邸から出勤するらしい男(カラックスの映画では常連のドニ・ラヴァン)が白いリムジンに乗り込み、今日の予定は、などと聞きながら、メイクをはじめる。

そして、その都度メイクを変えながら、物乞いになったり、ハイド氏のような凶暴なふるまいに及び、さてまた殺人者になったりする。

なんの予備知識も持たず見たので、最初はなにが語られているのかわからないのだが、一時間も過ぎるあたりになると、この映画が、たとえばデヴィッド・リンチの映画のように、不可解な謎をめぐって進行するものではないことに気づきはじめる。

ある種監督が不在であるフェリーニの『81/2』のような映画なのだ。

ついでにいえば、ロカルノ映画祭でのカラックスへの公開インタビュー(観客からの質疑応答を含む)も見て、いかにも取っつきが悪そうで、質問にも、誠実なあまり、期待されるような答えを一切返さない姿を見て、その人物も大好きになってしまった。



2015年12月2日水曜日

エクソシスト、西鶴、ホラー

『エクソシスト』で、公開時にはカットされたシーンに、少々おかしくなってきたリンダ・ブレアーが、ブリッジをしたままの姿で素早く駆け寄ってくる場面がある。現在では長尺版で見ることができるが、やや唐突で誇張された表現だったためにカットされたのかどうか、詳しいことは知らないが、はじめて長尺版を見たときには、もっとも怖い場面の一つとして印象に残っているのは、あるいは後に日本のホラー映画でそのヴァリエーションを様々に見せつけられたからかもしれない。ある意味、先駆的な表現だったわけで、カットしたのがよかったのか悪かったのかいまだによくわからないでいる。

ところで西鶴の『諸国咄』巻一に「見せぬ所は女大工」という一篇がある。御所の奥向きともなると、大工といえども男を入れるにははばかられるところが多く、女の大工が呼ばれ、寝間である座敷をすべて打ち壊すように命じられた。まだ普請したての座敷で、不審に思ってその理由を尋ねると、天上に、色の黒いおたふくのような顔をした四つ手の女が這いまわるという。そこで、様々な物を打ち外してみたが、特に変わったところはない。残ったのは叡山からもらったお札をはった板だけである。下ろしてみると、かたことと動いている。驚いて、板を一枚ずつはがしてみると、七枚下に長さ九寸ほどの守宮が、胴のあたりを釘で打たれて、紙ほどの薄さになってまだ生きて動いている。燃やしてしまうと、それ以後おかしなことは起きなくなった。守宮が起こした怪異としてしまうと、理に落ちた感もあるが、翻って考えると、守宮でさえこんな恐ろしい怪異をもたらすなら、なにが怪異の原因であってもおかしくないことにもなる。



2015年12月1日火曜日

鋼の明朗さ

中平康の『黒い賭博師 悪魔の左手』(1966年)を見る。アマゾン・プライムで見られる。日本に大きな映画会社が五社あったときのことに限っていえば、一番多く見ているのが東映で、相当な差を開けて大映、松竹、東宝となり、日活は鈴木清順を除けば一番なじみのない映画会社である。石原裕次郎の映画さえ、多分まともに見たのは1,2本ではないかと思う。無国籍映画とはよくいったもので、この映画も、四人まで妻が持てるのだからイスラム教の国らしいが、大泉滉が国王を演じているが、実権を握っているのは「教授」と呼ばれる二谷英明で、日本をギャンブルの市場にする上で邪魔な存在である凄腕のギャンブラー小林旭をたたきのめそうと、その手腕をコンピューターで解析し、選りすぐりの三人のギャンブラーを送り込む。まあ、もちろん、その企ては失敗に終わるのだが、おかしいのは「黒い」といい、「悪魔の」と二度にわたって念押ししているにもかかわらず、黒くも、悪魔っぽくもない鋼のような明朗さを保っている小林旭の存在感である。