『学海日録』によれば、「馬入川、古名相模川」とあり、泳げるような所があるのかどうかは知らないが、水遊びの経験はある相模川が古名であるところを知る。
2015年11月9日月曜日
『クライモリデッド・パーティー』と相模川
デクラン・オブライエン之『クライモリ デッド・パーティ』(2012年)を見る。シリーズ5作目。五作目にいたって、とうとう一作目のいいところがすべてなくなり、セックスをする馬鹿が死ぬというパターンが繰り返され、頭を使って怪物たちと張りあおうとするものはいなくなり、ただくだらないスラッシャー映画となった。
2015年11月8日日曜日
『ザ・キリング』第2シリーズと『死霊』
デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・ビギニング』(2011年)を見る。シリーズ第4作。もはや森などはでていないが、原題はWrong Turnで、そもそも森と関係がないのだから仕方がない。4作のなかで一番の駄作。ミュータントたちが集められたサナトリウムで牢を破って自由になった怪物たちが迷い込んできた学生たちと対決するというものだが、対決が始まるまでに40分以上かかるというもっさりさと、戦闘シーンの工夫ならともかく、必要もない間延びしたサスペンスや、妙なヒューマニズムが振り回されるのも噴飯物で、最終的に殺されてしまうとしても、気が利かない。病院はともかく、雪原などはよほど演出の手腕を必要とされるから、舞台選びからして失敗している。
『ザ・キリング』アメリカ版の第2シリーズを見終わる。一つの事件で2シーズンはさすがに長すぎる。これだけ長いと誰が犯人であっても、驚けない。最も最後に流される犠牲者のプライベート・フィルムには少しほろりとしたが。
なんと三十年以上の時間を隔てて埴谷雄高の『死霊』を読み返した。もっとも、河出書房新社版の著作集で読んだので、3章までである。未定稿まで含めると9章まであるようだから、半分も読んでいないことになるが(三十年以上前、確か5章までは一冊の本、次に6章が薄い本で出版されてそこまでは読んだような気がする)、普通に面白かった。一部で影響を与えたとされている小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などよりはずっと読みやすい文章で、エンターテイメントとして楽しめる。運河が張り巡らされたあの陰鬱な町は、どこかに実際的なモデルとなった街があるのだろうか。続けて『不合理ゆえに吾信ず』という断章形式の本も読み返すが、こちらは一節も胸に響くところがなかった。とりあえず残りの『死霊』とその他の文章も読んでみなければ、そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』くらいは読み返しておこうと思うのも、こちらも20年以上前に読んだきりで、しかも何一つ内容を覚えていないからで、文庫本で3巻もあって、読むのにかかった時間を考えれば、多少はなにか覚えていてもいいはずだが、きれいさっぱり晴天に曇りがない如く、何一つ覚えていない。
『ザ・キリング』アメリカ版の第2シリーズを見終わる。一つの事件で2シーズンはさすがに長すぎる。これだけ長いと誰が犯人であっても、驚けない。最も最後に流される犠牲者のプライベート・フィルムには少しほろりとしたが。
なんと三十年以上の時間を隔てて埴谷雄高の『死霊』を読み返した。もっとも、河出書房新社版の著作集で読んだので、3章までである。未定稿まで含めると9章まであるようだから、半分も読んでいないことになるが(三十年以上前、確か5章までは一冊の本、次に6章が薄い本で出版されてそこまでは読んだような気がする)、普通に面白かった。一部で影響を与えたとされている小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などよりはずっと読みやすい文章で、エンターテイメントとして楽しめる。運河が張り巡らされたあの陰鬱な町は、どこかに実際的なモデルとなった街があるのだろうか。続けて『不合理ゆえに吾信ず』という断章形式の本も読み返すが、こちらは一節も胸に響くところがなかった。とりあえず残りの『死霊』とその他の文章も読んでみなければ、そういえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』くらいは読み返しておこうと思うのも、こちらも20年以上前に読んだきりで、しかも何一つ内容を覚えていないからで、文庫本で3巻もあって、読むのにかかった時間を考えれば、多少はなにか覚えていてもいいはずだが、きれいさっぱり晴天に曇りがない如く、何一つ覚えていない。
2015年11月7日土曜日
『クライモリ デッド・リターン』と可楽の句
デクラン・オブライエン『クライモリ デッド・リターン』(2009年)を見る。シリーズ第3弾。2作目の後退からはやや持ち直したが、1作目には届かない。収監された凶悪犯たちが、搬送中に襲われて、といったシチュエーションはよいが、囚人同士で争い合ったり、途中で金が見つかりそれをどう運ぶかといったようなことがすべてなくてもがな、である。何作目になってもある程度の水準を保っている『呪怨』などが例外的なのか。
安藤鶴夫が紹介している七代目可楽の句に
山寺は雀も浴びる甘茶哉
片耳は蟋蟀に貸す枕かな
がある。特に「山寺」の句はいい句だなあ。『鬣』という同人誌で俳句を百句以上はつくったが、ついぞこうした句を得ることはできなかった。そこで一句、
やるせなや甍にかかる雲の裾
お粗末。
安藤鶴夫が紹介している七代目可楽の句に
山寺は雀も浴びる甘茶哉
片耳は蟋蟀に貸す枕かな
がある。特に「山寺」の句はいい句だなあ。『鬣』という同人誌で俳句を百句以上はつくったが、ついぞこうした句を得ることはできなかった。そこで一句、
やるせなや甍にかかる雲の裾
お粗末。
2015年11月6日金曜日
『クライモリ デッドエンド』と七代目可楽
ジョー・リンチ『クライモリ デッドエンド』(2007年)、シリーズの2作目を見る。第1作目が快作だったのに引き替え、クレバーな者たちが怪物たちと戦うというフォーマットがデフォルトになっておらず、セックス・シーンからの殺しや怪物たちの家庭団欒の様子まででてきて、まったく無駄なシーンが多い。サバイバル・ショーの演出からフリークスたちが紛れ込み、という展開もまだるっこしく、見る価値のない駄作とまではいわないが、前作のロブ・シュミットの才能がよくわかった。
私は落梧は音だけで十分だと思っており、DVDとCDがあったらCDを聞く方を断然選ぶが、安藤鶴夫の「七代目・可楽」(『寄席の人びと』所収)での可楽が『妾馬』を演じるところを読むと、無性に可楽の高座姿が見たくなった。この文章はとにかく愛情にあふれていて、不遇でもあれば幸せでもあった可楽の姿がとにかく泣かせる。可楽を聞いたのは立川談志が選んだ『夢の寄席』でだけなので、こんなに可楽に愛情を注いだ安藤鶴夫の悪口ばかり言うもんじゃないじゃないか、と思うが、ボタンの掛け違い、今更なにを・・・ということもあろうから、二人とも死んでしまった現在なにを言うこともないことだが。
私は落梧は音だけで十分だと思っており、DVDとCDがあったらCDを聞く方を断然選ぶが、安藤鶴夫の「七代目・可楽」(『寄席の人びと』所収)での可楽が『妾馬』を演じるところを読むと、無性に可楽の高座姿が見たくなった。この文章はとにかく愛情にあふれていて、不遇でもあれば幸せでもあった可楽の姿がとにかく泣かせる。可楽を聞いたのは立川談志が選んだ『夢の寄席』でだけなので、こんなに可楽に愛情を注いだ安藤鶴夫の悪口ばかり言うもんじゃないじゃないか、と思うが、ボタンの掛け違い、今更なにを・・・ということもあろうから、二人とも死んでしまった現在なにを言うこともないことだが。
2015年11月5日木曜日
『クライモリ』と『ザ・キリング』
ロブ・シュミットの『クライモリ』(2003年)は、いまは亡きウェス・クレイヴンの『ヒルズ・ハブ・アイズ』のようなミュータントものスラッシャー映画だが、なかなか面白かった。なにより、登場人物がはじめからクレバーで、馬鹿な男女がペッティングの途中で殺されるといった余計な部分がないところもよかった。最後まで生き残る人間も、『スクリーム』以後ということを感じさせる。
アメリカのテレビ・シリーズ『ザ・キリング』を第2シーズンの途中まで見る。もともとの原作となったデンマークのシリーズも見ているが、そちらが1シリーズごとに一応一つの事件が完結するのとは異なり、アメリカのは最初に起きる少女の殺人を第2シリーズまで引き延ばしている。主人公役の女刑事はアメリカのも悪くないが(デンマークのはちょっと吹石一恵に似ていて、アメリカの第1シーズンの終わりころにゲスト出演した)、売春宿を兼ねたカジノなどが出てきて、ちょっと『ツインピークス』のようになっている。
アメリカのテレビ・シリーズ『ザ・キリング』を第2シーズンの途中まで見る。もともとの原作となったデンマークのシリーズも見ているが、そちらが1シリーズごとに一応一つの事件が完結するのとは異なり、アメリカのは最初に起きる少女の殺人を第2シリーズまで引き延ばしている。主人公役の女刑事はアメリカのも悪くないが(デンマークのはちょっと吹石一恵に似ていて、アメリカの第1シーズンの終わりころにゲスト出演した)、売春宿を兼ねたカジノなどが出てきて、ちょっと『ツインピークス』のようになっている。
2015年11月4日水曜日
安藤鶴夫と談志
五代目柳家小さんの『出来心』『千早振る』『御慶』、ジョン・バルビローリ指揮、フィルハーモニック交響楽団のマーラー『交響曲第六番』
安藤鶴夫の『落語の魅力』『わたしの寄席』を読む。立川談志や川戸貞吉から目の敵のように書かれていたので、なんとなく敬遠していた。もっとも、『落梧鑑賞』はそれよりずっと前に読んでいたが、CDはおろか、テープさえ使えないような状況で、こうした労作の持つ意味が十分わかっていなかった。実を言うと、ボードレールやリラダンの翻訳で知られる齋藤磯雄と大学時代からの親しい友人だと知って、これは又聞きの評価だけで判断してすますだけの人物のはずがないと思ったのだ。
『わたしの寄席』では、小ゑんといっていた頃の談志がまっとうに評価されている。
落語を江戸の風を感じさせることにある、といった晩年の談志ならば、意見がかみ合わないこともないと思うのだが。
安藤鶴夫の『落語の魅力』『わたしの寄席』を読む。立川談志や川戸貞吉から目の敵のように書かれていたので、なんとなく敬遠していた。もっとも、『落梧鑑賞』はそれよりずっと前に読んでいたが、CDはおろか、テープさえ使えないような状況で、こうした労作の持つ意味が十分わかっていなかった。実を言うと、ボードレールやリラダンの翻訳で知られる齋藤磯雄と大学時代からの親しい友人だと知って、これは又聞きの評価だけで判断してすますだけの人物のはずがないと思ったのだ。
『わたしの寄席』では、小ゑんといっていた頃の談志がまっとうに評価されている。
四月の第二回に“蜘蛛かご”をやった柳家小ゑんには舌を巻いた。小さんの弟子である。小さんという学校もいいが、素質がよくって素晴らしい才能がある。本人に歳を聞いたら「いつも二十三といってんですがね」という、ほんとうは二十だそうだ。ほんとの歳をいうと馬鹿にされるから嘘をつくという。十六で小さんに弟子入りをした日に、小三治という名をくれといった。小さんの前名の、真打の名である。小さんもこれにはちょっとどぎもを抜かれたそうだが、そんなふてぶてしいところがある。
落語を江戸の風を感じさせることにある、といった晩年の談志ならば、意見がかみ合わないこともないと思うのだが。
2015年11月3日火曜日
『三人旅』と『汚れた血』
柳家小さん(立川談志の師匠であった方の)『三人旅』をCDで聞き、『万金丹』の途中でうとうとする。名人の話を聞いていると、とろとろとよいここちになるというからそういうことにしておく。
レオス・カラックスの『汚れた血』(1986年)を見る。初公開のときには劇場で見た。AIDSを連想させる愛のないセックスによって蔓延するウィルスの支配する近未来が舞台で、その特効薬を盗み出そうという話なのだが、こうした舞台設定は物語の本筋とほとんど関係がない。初めて見たときにも感じたことだが、非常にすぐれた監督であることはわかるが、その恋愛至上主義には鼻白む。エリック・ロメールのように意地の悪い感じが出ているとまた違うのだが、ここまでひたむきだと辟易する。せっかくの設定なのだから、ロメロの『クレージーズ』のようになってくれないと、といってはほとんど言いがかりのようなものだが。
レオス・カラックスの『汚れた血』(1986年)を見る。初公開のときには劇場で見た。AIDSを連想させる愛のないセックスによって蔓延するウィルスの支配する近未来が舞台で、その特効薬を盗み出そうという話なのだが、こうした舞台設定は物語の本筋とほとんど関係がない。初めて見たときにも感じたことだが、非常にすぐれた監督であることはわかるが、その恋愛至上主義には鼻白む。エリック・ロメールのように意地の悪い感じが出ているとまた違うのだが、ここまでひたむきだと辟易する。せっかくの設定なのだから、ロメロの『クレージーズ』のようになってくれないと、といってはほとんど言いがかりのようなものだが。
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