2013年11月12日火曜日

イアン・バンクス『蜂工場』(集英社文庫)

 スコットランドの小さな島に父親と息子が住んでいる。息子は股間が犬に食いちぎられ、そのためかどうか、学校にも行かず、小動物を面白半分に殺す日々が続いている。

 そんなある日、精神病院に入院していた兄が脱走し、帰ってくると連絡があった。裏表紙のリードには「ニューホラーの旗手」とあるが、特に異常な現象が起きるわけではなく、叙述的ニューロ・ホラーといえばいえるという程度。

 表表紙には「結末は、誰にも話さないでください」とあるが、さすがに1984年の作品であり、同じような趣向の小説や映画を幾度となく経験しているので、衝撃力はない。解説ではクライヴ・バーガーなどと比較されているが、文章の表現力は数段優れていると思うので、別の作品も機会があれば読みたいところ。

2013年11月11日月曜日

フィリップ・K・ディックの『逆まわりの世界』

 ホバート位相といわれる現象によって、死者が蘇り、どんどん若くなり、やがては子宮に戻り、性交によって男性の精子に回帰する世界になっている。蘇った死者を墓から救出することをなりわいとしている主人公は、ユーディ教という巨大な宗教組織を創出した教祖を掘り起こした。

 この教祖を得るための、ユーディ教を世俗化したいまの主導者とローマ教会と図書館との三つどもえの戦いに巻き込まれる。図書館は情報を次々に抹消していく消去局と組んで、なぜか強大な権力を握っており、教祖は彼らによって最後には再び死に追いやられてしまう。

 ユーディ教については、神が万物の根源にあり、死も時間も幻影に過ぎず、悪とは神から遠ざかっていることから生じる不完全性からくるに過ぎない、ということだが、それを具体的に提示するイメージに乏しく、世界の変容よりはアクション的な要素が強く、そうした世界観が背景にとどまっている。そうした意味で、ディックにしてはそれほどできはよくない。

2013年11月10日日曜日

演歌と置き忘れ——伊藤信吉『たそがれのうた』(風の花冠文庫)書評

 『鬣』第13号に掲載された。

片町や夏ゆくころの撥の音
和菓子、駄菓子。のうぜんかづらの花の店
すすき枯れし斜面草地やひるの月
ふるさとは風に吹かるるわらべ唄。
ヒル花火あなたこなたにヒバリ鳴く
手のひらにたたみこむほどにや余呉の秋

 伊藤信吉の句には、歳時記を開かなければわからないような俳句独特の用語も、観念的な言葉も、イメージの突然の飛躍もなく、一言で言えば、大げさな身ぶりを一切見せないつつましい相貌を保っている。更に、友人たちに贈った句や旅先でできたとおぼしき句が多いことをつけ加えると、日常の細部を切り取った日々の覚え書きのような句が自然と連想されるだろう。だが、実際には、どれだけ「自注」に詳細な状況が書き込まれていようと、句はそうした具体的な細部をきれいに洗い流している。「彼岸花」や「木瓜の花」といったくり返し取り上げられる植物にしても、句の前面ににゅっと姿をあらわすというよりは、風景のなかに分かちがたく溶けこんでいる。月や花火は、むしろ昼にある方が好ましい。夜の月や花火は、夜空を背景に強烈な自己主張をし、まわりのものを背景として従えてしまうからでもあるが、それだけではない。夜の月や花火があまりに時機に合っているためもあるだろう。昼の月や花火は時機を外れたものであり、時間的な遠近法を混乱させ、現在をいつかどこかで経験したかもしれない過去、郷愁に満ち、どこか寂しく、取り戻すことのできない、時機を逸してしまった過去に結びつける。伊藤信吉の句は、一貫して、細かな現実によってかき乱されない、こうした追憶のなかの風景を描きだしていると言える。

雪催い灯の色かなしおしゃれ町
おしゃれ町灯の色しめて夏逝きぬ
地下鉄に秋おとずれし灯の並び
日最中を黒洋傘や街の中
人波は人波のまま師走町

 「演歌俳句」と自らの俳句を名づけたのも、現実をある色調に染めあげ、「手のひらにたたみ」こめるような風景に変換するものとして俳句を捉えていたからだろう。「おしゃれ町」というのが原宿のことを指すのだと、句だけを読んで誰が一体感じ取れるだろう。雑踏も喧噪も拭い去られ、むしろ原なかで宿場の灯が仄かににじんでいるような雰囲気がある。師走の人混みにしても、「人波」と「師走町」に大きくくくられることで、せわしなさや人いきれが発する物理的な圧力が抜き取られ、道を風が渡っていくような具合に変容される。そして、こうした変換作業が、ステレオタイプなイメージで捉えられがちな都市に対して思いがけぬ異化効果を上げている。

粉雪降る北戀う日暮れ粉雪降る
こんにゃくの土色村の秋の色
聴け聴け聴けセミ鳴くセミ鳴く権太坂
春立つや日々のろのろののろま唄
唐辛子赤し木枯らし人枯らし

 『全句集』で目立つのは、同じ言葉や音のくり返しである。多分、それは現代俳句の実験性とは無縁であって、くり返し自体を楽しむ稚気はもちろんあるだろうが、「演歌俳句」の面目躍如たる部分でもある。分析的に対象を扱うタイプの俳句ではないし、例えば比喩を使い、また、意想外なものとものとを併置することで、隠されていた、あるいは新たな詩的意味を浮かび上がらせる俳句でもないので、対象に対して言葉足らずなのではないかという不安や、俳句の短さを恐れる必要など伊藤信吉はまったく感じていなかったに違いない。情調さえそこにあるなら、ためらうことなく同じ言葉をくり返せばいいし、そうすれば情調が高まりこそすれ、もろく壊れてしまうことはないだろう。つまり、伊藤信吉の句は、実験性という堅苦しい印象こそないが、俳句という極端に短い形式のなかで、演歌のリフレインを実現することのできた希有な例だと言うことができる。

ボケの花寝ボケルとぼける煤ボケル
冬至の湯湯気まぼろしの思いのみ
物忘れ生涯かけての置き忘れ

 『全句集』には、数こそ少ないが印象的な述懐の句がある。一見すると、老境に至った現在の自分のありようを述べているようでもあるが、意外にしたたかで戦闘的なポレミックと考えることができる。郷愁の源である追憶の風景が、演歌の情調がある限り、いまここにある思いがまぼろしであろうが、日常的なあれこれを物忘れしようがたいした問題ではない。というのも、いまここにあるものがまぼろしとして消え、忘れ去られることでますますあらわなものとなるのが、追憶の風景でもあり演歌の情調でもある叙情の核であって、この核を剥きだしにするには生涯かけてどれだけ物忘れし、置き忘れしようが多すぎることはないのである。

2013年11月9日土曜日

ロバート・シェクリイの「ウオッチバード」

 1953年の短編。殺人の発生を防ぐために、科学者たちがウオッチバードという機械を発明する。要するに機械仕掛けの鳥で、殺人を犯すときにあらわれる微細な化学変化を感知して、スタンガンのようにショックを与えて、殺人を未然に防ぐ。

 最初は良好な結果があらわれていたが、このロボットが学習する機能を与えられていることから問題は拡大し、とんでもない方向に逸脱していく。殺人とは有機体が有機体を殺すことである、そう解釈されたとき、もちろん狩猟も漁業も農業も許されなくなる。機械もまた電源を切ることが許されなくなる(車やラジオを見ればわかるように、静かになり、暖かさを失い、死んだと同じような状態になるから)。食物の連鎖が大きく崩れ、餓死する人間が急増する。

 大統領によって、この機械を停止するよう命令されるが、なにを置いても「殺人」を阻止することを優先することがプログラムされているこの鳥は、おとなしく停止に従うわけがない。最初からこの計画に懐疑的だった主人公(だが、はっきりと問題を言葉にすることはできなかった)は、技師に命じて、鳥たちを捕獲し、破壊する機械仕掛けの鷲を製作する。

 鳥たちはみるみる捕獲され、今度こそ問題は解決するかに思われるのだが、殺すことを防ぐためにつくられた鳥がもたらした結果を思うと、殺すためにつくられた鷲がこれからどうなるか憂鬱な気分になるのだった・・・・・・

 デュ・モーリアの原作はほぼ同じ時期なので、影響関係はないだろうが、ヒッチコックの『鳥』(1963年)を連想させる。鳥を極端に怖がる者があるが、M・ポングラチュ、J・ザントナーの『夢占い事典』(河出文庫)によると、鳥は両性的象徴(スワンベルグの絵が思いだされる)で、死をあらわすこともあるという。

2013年11月8日金曜日

ゾンビ――ジョージ・A・ロメロ

ロメロのリビング・デッド三部作のなかで、『ゾンビ』独特の魅力は、その端的な邦題にあらわされているように、ゾンビがいきいきと縦横に動きまわっている点にあるだろう。

一作目の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、皮肉で教訓的な結末(最も理性的に振舞い、ドラマの唯一の生存者である黒人男性が、ゾンビに間違われて警官に射殺される)に見られる通り、パニック映画の一変種と考えていい。船の転覆やビルの炎上のように、人間の隠された性質を炙りだす危機的状況としてゾンビはある。

三作目の『死霊のえじき』では、ゾンビは地下施設の研究対象で、最後のカタストロフが訪れるまでは檻のなかの動物に等しい。ドラマの中心になるのは研究者と強権的な軍人との争いや、ゾンビを飼い慣らす可能性である。なにより、どちらの映画も主要な舞台が、さほど広くない一軒家と地下施設という密閉された空間で、外部から迫りくる危機に比例するようになかにいる人間の葛藤の激しさが増す仕掛けになっている。

確かに、『ゾンビ』でも四人の男女が郊外のショッピングセンターに立てこもるのだが、駐車場も含めたその空間は広大で、野生のゾンビが思うさま動きまわれる。動きは緩やかだが、確実に人間に近づいてくる無数のゾンビの蹌踉と徘徊する姿、この緩やかさと確実さがこの映画に絶えることなく鳴り響いている。それに対抗する動きがないわけではない。軍隊並みの武器を装備した暴走族たちは車やオートバイの速さで緩やかさをかいくぐり、ゾンビを攪乱することによって確実さを削り取ろうとするが、小さな渦が波に呑みこまれるように、緩やかさと確実さに沈んでいく。

暴走族の来る前、限られた数のゾンビを掃討して外との出入り口を塞ぎ、自由になったショッピングセンターで無為な時間を過ごす三人(既に一人は死んでいる)、食料品から銃や宝石までなんでもある場所でなにもすることがないこの上なく純粋に近い無為にいる三人の時間だけが、その緩やかな日々の移ろいとどこにも出口がないという確実さにおいて外にいるゾンビたちと危うく美しい均衡を保つことができた。

ゾンビと人間との関係は、エリアス・カネッティの群衆の分析を思い起こさせる。我々には未知のもの、身に危険が及びそうなものを遠ざけておこうとする接触恐怖があり、それが権力の、つまり他人をある決められた距離に配そうとする行為の源にある。この接触恐怖が恍惚や陶酔に転化するのが群衆である。

『ゾンビ』にあるのもこの種の転化で、緩やかであるはずのゾンビの動きは、取り囲まれた人間にとってはいつの間にか逃れることのできない素早さをもち、身の毛のよだつゾンビの輪が徐々に自分に向けて狭まり触れられ歯を立てられることは確実さが得体の知れない未知の官能、自堕落な自己放棄に転化する瞬間なのである。

彼らはどんなところでも歩きまわるだろう。
                            ジョージ・A・ロメロ

2013年11月7日木曜日

狂歌──女性たち

『鬣』第12号に掲載された。

               

この口はどうしてそんなに大きいの首までつかれる赤ずきんの湯

暗黒の深夜の蔭の闇だまり鏡に映るアリスの左手

あずまやに千鳥格子の掛け布団むくむく動くアリスの宮夫妻

姫りんご身ぐるみ剥いで差しだすは西方浄土のアフリカのイヴ

瓜売りが瓜売り歩く瓜市場瓜子姫には多すぎる種

深川砂村隠亡堀戸板返しのうらおもてお岩の顔が目減りする夜

旅ゆけば駿河の路は春がすみ男を上げるお蝶の茶柱

ぬばたまの首長姫の黒髪に行燈油を惜しみつつつけ

名月や千日前の啖呵売語るに落ちたシェヘラザード

白い空雪のなかでの姫はじめいばらの門にふと立ちどまる

この恨みまさかはらさでおくものか瀧夜叉姫には奉加帳のあて

竹婦人すきま風吹く首かしげ若竹のトリ芝浜の夢

黄昏の紫煙に煙るダンス場ナオミが踊る人間の床

陥穽の振り子の下の早がわり着たり脱いだり忙しないマハ

真昼間にくちなわ色の綱を引く朝顔婦人と夕顔婦人


     夫狂歌には師もなく伝もなく、流義もなくへちまもなし。瓢箪から駒がいさめば、花かつみを菖蒲にかへ、吸ものゝもみぢをかざして、しはすの闇の鉄炮汁、恋の煮こゞり雑物のしち草にいたるまで、いづれか人のことの葉ならざる。されどきのふけふのいままいりなど、たはれたる名のみをひねくり、すりものゝぼかしの青くさき分際にては、此趣をしることかたかるべし。 
                     大田南畝

2013年11月6日水曜日

理解しがたい単純性──バタイユ




 『鬣』第11号に掲載された。


性器を剥き出しにした娼婦のエドワルダが、あたしは《神》だと宣言する。語り手が述べているように、マダム・エドワルダについて、彼女は神であると言うとき、皮肉と受け取ることは思い過ごしであろう。

バタイユはここで、すべてのできごとに意味を割り振り、できごとをあらかじめ与えられた意味から決して越え出ることのないものに制限する神に対して、意味を越え出て新たな意味を形づくるできごとそのものである神を提示している。

したがって、ここでの神の登場は、聖人伝に見られる神あるいは神慮のあらわれとはその意味合いをまったく異にする。それらの物語では、神の登場によってそれまでのすべてのできごとが、まさに神の登場を準備するものであったことが明らかになる。神のあらわれはあらゆるできごとをあるべき場所に送り返す最終的なできごとなのである。

だが、エドワルダという神は、全知全能という言葉であらわされるような、あるいは、豊饒多産であるような神とは程遠いところにいる。全知全能の神であるならば、できごとのことごとくに適切な意味を割り振ることができるだろう。また、豊饒多産な神であるならば、できごとを次々に生み出していきながら、中心点を持ち完了した世界とは異なった、中心点を持ちながら完了しないような世界のモデルを提示することができるかもしれない。

しかし、エドワルダという神は、意味を与えてくれるわけではないし、ある意味の変奏である新たなできごとを次々にもたらしてくれるのでもない。神が登場することの意味は、ひとえに娼婦であるエドワルダという神が男の前に現れる、そのできごと自体に集約される。できごとを宰領する神ではなく、既にある、確定した意味を超えたところに突き放すできごとそのものとしての神である。

エドワルダは一向に神らしきことをしないが、あらゆる意味を破産させる、腹の底からの、胃袋が裏返るまでの情欲がある。奥底からの情欲は隙間なく身体を満たしながら、開口部から身体の外部へ流れ出る。その充溢と消尽とが一致する瞬間こそ、情欲が人間を理解しがたい頑固な物へと変貌させる跳躍の一瞬であり、そのとき、エドワルダが自ら神だと言うならそれが皮肉などではないことをわれわれは認めざるを得ないし、生命のない場所に剥きだしに放り出されるひりひりした感覚を感じずにはおれない。
 
    こうしておれは知ったのだ――身内の陶酔は完全に霧散し――「彼女」の言葉にいつわりはなかったのだ、「彼女」は「神」なのだ。彼女の存在は一個の石の理解しがたい単純性をそなえていた。大都会の真只中で、おれは夜の山中のような、生命のない孤独のなかにいるような思いだった。        (生田耕作訳)