映画についてなにかをいうときに、なんとなく後ろめたいというか、ふわふわとした頼りなさをおぼえるのは、映画に関して無意識的な記憶がないからで、いかなる意味でも映画で育ったとは言いかねるからだろう。
要は育ちが悪いということで、淀川長治や山田宏一、たしか店商売をしていた両側が映画館であったという菊地成孔などを読むとつくづく自分は育ちが悪いなあ、と思うわけだが、両親ともさほど映画を見ることに熱心ではなく、近くに映画館もない郊外育ちで、三人で行ったのはスピルバーグの『ジョーズ』だけ、といって本は相当あったから、恨む筋合いはないが、そういえば、幼いときに、母親と二人で映画に行ったことがあり、テレンス・ヤングの『バラキ』で、2番館に行ったとも思えないから、封切館で見たのだろうが、だとすると、幼稚園に行くか行かないかのころのはずで、なにを考えてマフィアものなどに連れて行ったのか理解不能で、理解するのがちょっと怖い気もして、いまだにこの映画見直していないのだが、そもそも母親は、スティーブ・マックイーンが好きだと聞いたおぼえはあるが、この映画の主演であるチャールズ・ブロンソンなどはその後の好みの変遷を考えてみても、外れているはずで、おぼろげにおぼえているのはトイレのシーンの薄汚れた白いタイルだけで、ますます下手につつくとなにが出てくるかわからない。
無意識的な記憶がないということは、高校を卒業してから二本立てや三本立てにせっせと通って名画座と封切館との記憶が完全にごちゃごちゃになるまでは、逆にはっきりしているということで、子供の頃、友人たちと見たのはサム・ペキンパーの『コンボイ』、ブルース・リーの二本立てくらいで、ブルース・リーは相当電車で遠出して『死亡遊戯』ともう一本は忘れてしまった。
始めて大好きになった映画は『エクソシスト』で、ブラッティの原作も好きで、何回も繰り返して読んだ。『スター・ウォーズ』はなぜか封切り日に見て、上映後に拍手が起こったのをおぼえているが、ピンとこなかった。いまもほとんど興味がない。
もっとも私が幼いときには毎日洋画劇場があって、そこで無数の映画を見ていたから、そして淀川長治や荻昌弘や水野晴郎の口調はおぼえていても、実際なにを見たのか記憶の底に沈んでいるから、テレビについての無意識的な記憶のなかに幾分擬似的な映画の無意識的記憶が混じり合っているのかもしれない。
2017年9月30日土曜日
2017年9月28日木曜日
都市という幻想――安部公房『箱男』(1973年)
安部公房は都市小説の書き手だといわれているが、相当限定をつけなければならない。いかなる意味でも、魅惑的な特定の都市を描きだすことはなかった。郷愁の対象でありながら、憎むべき相手でもあり、生活の地盤であった永井荷風や久保田万太郎における東京の下町のような存在とは無縁だった。また、風俗に関心がないので、三島由紀夫や吉行淳之介のように、あるいは村上春樹や村上龍のように、都会が印象的な姿を見せることはない。さらにはイメージとしての都市、未来派と親和性が高い都会を稲垣足穂のように魅力的に描くこともなかった。ポオを好んだが、『群衆の人』のような、ボードレールとも結びつくような、都会に生活することの安楽と不安がない交ぜになった感受性とも不思議に縁がない。
そもそも『箱男』といういかにも都市でしかあり得ない存在を巡るこの小説には、都市がほとんど描かれていないのである。二カ所に新聞記事の抜粋があり、上野の浮浪者が一斉に取りしめられたこと、新宿駅の地下で倒れていた者が十万人に及ぶ乗降客に無関心に放置されたことが記されている。また、作者自身による写真が載せられており、そこにはモノクロの粗い粒子で、シャッターの下りた宝くじ売り場、貨物列車の番号、病室に貼られた解剖図、同じ方向を見つめるおそらくは家族の一団、曲がり角で対向車を確認するミラー、公衆便所に立ち並ぶ男たち、ゴミのような大量の荷物を抱え自転車を引いている男、廃車置き場といった都市そのものというよりは都市の分泌物のような情景であり人物なのだ。
だが、不思議なことに、都市の群衆のなかにいる人間についてはついぞ触れられない。男は段ボールの箱をすっぽりとかぶることによって、箱男となり、匿名の存在になるが、匿名でこそあれ異物である箱男が、群衆のなかでいかに匿名の何も意味しない存在へと変質するかは決して問題とはならない。いわば箱をかぶることによって、他者もまた消失してしまうのである。匿名性を得た男は、群衆に立ち交じることもなく、病院の院長とその愛人らしい女との三角関係に巻き込まれる。しかし、彼、または彼女も箱男を断罪するわけでもなければ、匿名性を暴き立てようとするわけでもない。しかも院長が偽箱男となったり、女は愛情を求めるわけでもなく、いわば擬似的な三角関係に過ぎないのだ。
『燃えつきた地図』の団地といい、『密会』やこの『箱男』の病院といい、いずれも都会とは異質な、無機質な群衆には至らない、しかし病気による、あるいは同じ一群の建物に住むという紐帯でつながった集団によって形成された擬似的な都市=群衆なのであって、そこには確かに匿名性はあるが、同時に他者性も消失しており、代替可能な人間だけが残ることになる。
2017年9月24日日曜日
謎は謎として残り――福沢諭吉『丁丑公論』(明治34年)
福沢諭吉についてほとんど興味はなく、『学問のすすめ』さえ読んだことがない。唯一読んだことがあるのは『痩我慢の説」(執筆は明治24年、発表は明治34年)であり、それは薩長土肥を中心として創設された明治国家において、その敵であったはずの幕僚が次々と転身し、新政府の要職についているのを歎じ、そもそも徳川幕府が長年にわたる支配を続けてこられたのは、どんな悲運や辛苦があっても落胆することなく、家臣や主人のために尽力した家康及び三河武士の痩せ我慢があったからであり、ひいてはそれが武士の美質となった。しかるに、昨日までのことをすっかり忘れ、節を変じて幕府のものが新政府のために勤めることは、長年にわたり築かれてきた武士の美風を損なうものとし、その代表者である勝海舟と榎本武揚を批判している。
こうした問題は、私たちの親、あるいは祖父母の、敗戦後それまでの価値観が一夜にして変わった世代にとってはより切実なものだったろう。しかし彼らはあるいは痩せ我慢の必要は感じたかもしれないが、武士道を必要とはしなかった。むしろ人間としてのあり方の問題である。
明治維新のときにいわゆる武士道を一番損なったのは、様子を見て趨勢を見守っていた多くの諸藩であり、藩などを越えた国のあり方の必要を実感していた勝海舟に比べると、福沢諭吉の方がより封建的な価値を引きずっている。例えば、『通俗民権論』(明治11年)などを見ると、「権」とは、「権利、権限、権力、権理、国権、民権」などと用いられるが、より通俗的に言えば、「分」のことだとしている。武士には武士としての「分」があって、各人の分に従って行動すべきだと言っているようだ。「分をわきまえよ」などという言葉は、威圧的、あるいは今風に言えば、モラル・ハラスメントでしかないことは、主人が雇い人にいうことはあっても、その反対はないという非対称性によって明らかである。また「権」ということがその程度のものであるなら、人間はその生まれの身分、性別によってはじめから与えられる「権」が定まっていることになる。
それゆえ、「立国は私なり、公に非ざるなり」(立国が私だというのは、隔絶された社会において、自給自足の生活が送れる限りにおいては、そこに国の必要などないが、実際には我々は利害をことにする他者に囲まれて生活している、そこで自らの利益を守り、折衝するために国家を必要とすることを意味している)という福沢諭吉の言葉に対応するように、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」とこの批判に簡潔に答えた勝海舟、各藩のものと隔てなく付き合い、それこそ臨海丸で福沢諭吉とも同乗してアメリカにまで渡った彼の方がよほど立派に思えた。
ところで、そんな福沢諭吉が西南戦争の首魁である西郷隆盛を擁護している『丁丑公論』(明治10年西南戦争が鎮圧されたときに書かれたが発表されたのは明治34年)を書いているのを知ってちょっと意外に感じた。同じく、内村鑑三が『代表的日本人』の一人目として西郷隆盛を上げているのを見たときにも意外な感を受けたが、内村鑑三はあまりに自己の立場に引きつけ、武士道的ストイシズムをキリスト教のない社会におけるキリスト教の代替物とする強引さが目立つものだった。
一方、福沢諭吉の擁護論というのは、現代の状況とオーバーラップする。新政府は早くも腐敗を始め、士族は困窮し、農民は貧困を極め、徳川時代のおけるよりも農民一揆は頻発した。しかし、新聞をはじめとするジャーナリズムでは、朝鮮に対する対応の相違によって下野した西郷隆盛に対する非難が渦巻いていた。そして西南戦争直後における反応もそれに異ならなかった。いわば、政府の腐敗と民衆の貧困対策への無能力のガス抜きとして、西郷隆盛は政府および言論界において利用されたと福沢諭吉は言っている。そもそも西郷は政府を転覆しようとしたわけではなく、政府の「一部分」である政策について不和をきたして下野したのであるから、死に追い詰める必要もなかったはずだ。こうした分析は、全体としてみれば、現在の政治状況にも当てはまる正確なものだと思うが、島津斉彬に殉じて死のうとし、僧月照とともに入水し、朝鮮への使節に自ら赴こうとするなど、常に死に場所を探しているような西郷の謎については手つかずのままで、やっぱり不満を感じる。
2017年9月19日火曜日
退屈?な日常――前田司郎『不機嫌な過去』(2016年)
なんで、どうして、を繰り返し、大人になることは毎日の繰り返しのなかで、感覚をすり減らしていくにすぎないと思っている女子高生の果子(二階堂ふみ)は、祖母と両親、それに新しく生まれた妹とともに豆料理の店に暮しており、スナックを経営している近所の一家ぐるみの友人の小学生の娘と夏休みの日々を暮している。なんで、どうして、と言い返すのは、なにか根本的な原因を知ろうとするためではなくて、むしろなんでだかわからない物事に関しての疑いを遮断しようとしているかのようだ。そんなある日、死んだはずの叔母、未来子(小泉今日子)がふらりとあらわれる。詳しくは語られないが、彼女は前科もちで、果子が生まれてすぐに北海道で死が確認されていた。
正直なところ、単調な繰り返しにしか思えない日常に僅かな驚きが突き刺さって生になんらかの意味を見いだすというタイプの物語は、映画からアニメにいたるまで無数に題材にされていて、食傷気味であり、タイム・リープものも、平行世界ものもそのヴァリエーションだとすれば、手垢にまみれている。
さらに、監督が演劇人であることを思えば、「別の世界」を求める果子の状況はもはや古典であるベケットの『ゴドーを待ちながら』そのままであり、槍のホンダという女性が、あらわれるのを見張り続ける我が子を喰ったワニや短い会話で空間を成り立たせていく手法は別役実、果子が唯一関心をもつ男性、山高帽をかぶり、トンビっぽい上着を着て、人さらいであり、革命家であるらしい人物などは唐十郎的である。
監督の発明は、死んだはずの未来子を迎え入れる家族は、生きてたの、というくらいでさほど驚きを見せるわけでもないし、ある晩ふっと姿を消しても、特にうろたえはしない、果子が感じている退屈な日常と同時に、大林宣彦の『異人たちとの夏』のように、死者が戻ってきたとも思えるし、未来子が言うように生きていたのだとも思える、いるはずのない巨大なワニや人さらいや爆弾が共存し、実は退屈な日常からは浮き上がった漂うような空間をつくりだしたことにある。
そして、舞台では表現できない、二階堂ふみの不機嫌な表情のクローブアップ、最終盤で、髪をあげると一瞬誰だかわからなくなる、実は変化に富んだ顔立ち、小泉今日子の、『あまちゃん』以降だろうか、もしかしたら樹木希林のような女優になるのではないかと思わせる、すっかり板についた少々やさぐれた雰囲気、更には海があり、川があり、橋がある品川の街が、漂うこの空間をしっかりとした具体性に結びつけており、映画として成立させる。
2017年9月16日土曜日
エイリアンという隠喩――リドリー・スコット『エイリアン』(1979年)
ここではイギリス映画を、イギリス監督による映画ということにしておくが、淀川長治は、もちろんチャップリンやヒッチコックは例外として、イギリス映画を、例えばデヴィッド・リーンやパウエル=プレスバーガーなどを評価するときに、とにかく美術が立派でしたねということが多かった印象があるが、あたかもそれは淀川長治が愛したアメリカ映画、イタリア映画、そしてフランス映画と比較して美術くらいしか褒めるところがないことを言外に含んでいるようで、妙におかしかった。私はミステリーといえば、P・D・ジェイムズ、やミネット・ウォルターズ、コメディといえばモンティ・パイソン、ドラマといえば『ウェーキング・ザ・デッド』(『ウォーキング・デッド』ではありませんよ、ゾンビものではなく刑事ものです)やスティーヴン・ポリアコフというイギリスびいきなのだが、したがって淀川長治のような言外の意味を持たせるつもりもないのだが(もっとも、繰り返せば、言外の意味を感じるのは私の印象に過ぎない)、スタンリー・キューブリックやリドリー・スコット、ニコラス・ローグなどから、デレク・ジャーマン、ピーター・グリーナウェイなどを経て、クリストファー・ノーランに至るまで、一貫した特異な美術センスをイギリス人監督たちは持っているように思える。それはある種のトッポさであり、フランスやイタリアには見られないものである。
『エイリアン』と『2001年宇宙の旅』は対照的な宇宙像を提示した。キューブリックの描く宇宙は硬質で、幾何学的だが、『エイリアン』の宇宙、あるいは宇宙船は、ギーガーのデザインの力もあって、工業時代の残滓を色濃く残しており、スチーム・パンクの世界に近い。また『2001年』では、異文化がモノリスという屹立する硬質な物体によってあらわされているのと異なり、エイリアンは深海生物のようでもあり、甲殻の裏に牡蠣のような柔なかな身が詰まっていて、襞の多さは女性器を連想させるが、攻撃の際にはその女性器状のものが裏返り、男根的に突出もする。つきまとって離れないが、受け入れることはできないトラウマ的な「もの」でもある。カントの言葉で言えば、モノリスは崇高であり、エイリアンは物自体であるともいえる。地獄変相図に見られるように、我々のなかにはぐちゃぐちゃした内臓が詰まっているが、我々は内蔵によって生かされているが、内蔵を生きることはできない。
かくして、天球図でいえば、『2001年』が煉獄を『エイリアン』は地獄をあらわしているといえるかもしれない。しかし、両作品はかつてないほどの技術とセンスによって宇宙をあらわしたが、それによって宇宙における密閉感を先鋭的に表現してしまった。というのも、宇宙とは暗黒と光の反射である星々があるばかりであり、それだけではなんの出来事も生じないからである。科学においては、閉じられた宇宙像から開かれた宇宙像の二つのモデルがあるが、映画においては、開かれた空間についての優れた表現は多々あるが、開かれた宇宙の表現はあるいはVRに委ねられているのかもしれない。
2017年9月12日火曜日
滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)3
初編 巻之二
○王教頭密かに延安府に走る
張天師が道術で民の疫病をことごとく祓った後は、天下泰平でおかしなこともなかった。
仁宗皇帝は四十二歳で崩御されたが、太子がなかったので、位を允譲の子、太祖皇帝の孫に伝え、英宗皇帝と号し奉った。
そして、在位四年にして、位は太子の神宗に伝えられた。
神宗皇帝は在位十八年で、位を太子、哲宗皇帝に伝え、嘉祐三年から天子四代、三十年以上を経て、四海はますます無事であった。
このとき、東京開封の府中、汴梁の宣武軍というところに、ひとりのお調子者がいた。
姓は高氏で、二男だったので高二とされた。
若い頃から家業をせず、ただ槍や棒をたしなみ、蹴鞠では並ぶ者がなかった。
そこで、都の人は、彼を高二とは呼ばず高毬と呼んだ。
毬の字は、まりとも読むので、姓が高なので、毬の技が高いというわけだった。
高二はこれを嬉しく思い、毬の字の毛編を人偏に改め、自ら高俅と名乗った。
この人物、武芸、相撲にも長け、音楽もたしなみ、また、詩を賦し、文をつくり、何につけ才能はあったが、心がけは正しくなく、忠義の念に薄く、常に都の裏を徘徊し、幇間として生活をしていたが、近頃は、王員外というものの子供をそそのかして、毎日花街に誘い出し、多くの金を使わせたので、王員外は深く高俅を恨み、役所に訴訟を起こしたので、やがて高俅は捕らえられ、四十の鞭打ちとともに都を追放された。
高俅は都に入ることができなくなったので、淮西の臨淮州という僻地に行って、柳世権という人物に頼ったが、この人物は身持ちのよくない男で、多くの無頼悪徒を養いおいて、その宿賃で生計を立てていたので、彼をもたやすく受け入れて三年もたとうとする頃、帝の哲宗皇帝、五穀豊作、四海安全のため、自ら南郊でまつりごとをなされたところ、この年天候も安定したので、帝は機嫌良く、天下に大赦を行われ、追放の罪人たちを許され、高俅も都に帰りたいと思い、柳世権に相談したところ、柳も大赦を歓び、「幸い、都の金梁の橋の下にある生薬屋の董将士という者が私の親戚なので、まずそこに落ち着いたらよかろう」と言って、紹介の手紙をしたため、土産路用などをもたせて、高俅を都に帰らせた。
高俅は柳世権に別れを告げ、日を経て都にたどり着き、金梁橋下の王将士の薬屋を訪ね、紹介の手紙を差し出すと、董将士は読み終えて、心のなかで思うに、この高俅は音に聞くお調子者、いま赦免されたといって、我が家においていたら、子供らに悪いことを教えるだろう、とはいうものの、柳世権の紹介してきたものを追いやるのも後ろめたい、しばらくはとどめおいて、その後他へやるとしよう、と思案し、「よくぞいらした、まずはこちらへ」と客間に伴い、一週間ほどは手厚くもてなしていたが、ある日、高俅を招いて言うには、「我が家は商人なので、あなたがいつまでいようと、出世の助けにはなりません、そこで、小蘇学士という人のところへご紹介しようと思います、この人はもともと手広く権門の方々のところに出入りしているので、心を込めて奉公すれば、必ず出世の話もありましょう、おいでになる決心がついたらこの手紙を持って行きなさい」と言って、かねて書いておいた手紙を取り出してみせれば、高俅は喜んでこれを受け取り、その日に小蘇学士の家に行ってみると、この学士も董将士の手紙を見て思うに、高俅はもと幇間で浮薄なものであろうに、どうして我が家で養えよう、とはいえ、私は年来董将士と親しくしているので、拒絶するのも角が立つ、幸いなことに、貴人の婿、王晋卿の役所はいつ行っても、風流の人物や、芸能に優れたものを愛し、また最近は特に出世頭で、世の人が小王都大尉と尊ぶほどだから、高俅を薦めて、進ずれば、喜ぶに違いない、と腹の内で計算し、次の日、召使いに手紙をもたせ、高俅とともに王都尉のもとに送った。
この王都尉は、帝である哲宗皇帝の妹婿で、富に任せ、風流な人物だといえば、不要であっても厭うことなく、多く養っていたが、小蘇学士が手紙をつけて高俅を薦めてきたのを大いに歓び、返事を使いにもたせ、高俅はとどめおいて、側近く召し使っていると、もと幇間のことではあり、ひたすらおもねりへつらって、すぐに懐に入り、一家のものであるかのように暮らしていた。
さほど時もたたぬうちに、王都尉の誕生日の祝いに、同じく都尉の小舅端王が招待された。
この端王は、先の帝、神宗皇帝の第十一子で、いまの帝の弟なので、九大王と称えられ、鋭利な人物で、風流なこと全般を好み、下々のことについても、役者幇間のことまで、知らないということがなく、また彼等を愛していた。
それだけでなく、琴、将棋、書画、儒教や仏教、あるいは歌舞の技まで、ことごとく習っていて、そのなかでも蹴鞠を好んでいた。
王都尉は主として、めでたい香炉に香を焚き、金の瓶に花を挿し、水晶の壺、琥珀の盃には遠来の珍酒を湛え、玳瑁の皿、玻璃の椀には、珍奇な果物、熊の手のひら、駱駝の蹄、魚介の類いを盛り、舞姫たちが立ち並び、歌姫が楽器を持って用意が整った頃、端王がいらしたので、王都尉は様々に心を尽くして歓待し、酒宴の時も過ぎて、端王が手洗いに立ったとき、書院の机の上に羊脂玉という玉で、細工の巧妙な獅子の文鎮を見つけた。
端王はこの文鎮を手にとって、物欲しげにしているのを、王都尉はすぐに察して、このほかになお龍の筆立てがあります、同じ職人のものですが、しまってあるのでいますぐは手元にありません、明日そちらも取りそろえて、奉りましょうと言ったので、端王は喜んで、もとの席に着き、更なるもてなしに様々の興あって、夕暮れに宮中に帰られたので、次の日、王都尉は、龍の筆立てを取り出し、獅子の文鎮とともに黄色の風呂敷に包み、手紙を添えて、高俅を使いとしてたてると、取り次ぎのものが、端王はいま庭裏で、毬を遊ばしているので、裏に参り、使いの趣を申し上げるがよかろう、と案内をされたので、高俅はその後に従い、庭に来てみると、端王は薄衣の帽子をかぶり、紫に龍を縫い込んだ着物を着、二色の房のついた帯を結んで、金糸の毬靴を履き、四、五人の小姓と毬を蹴っておられたので、高俅は後で毬が終わるのを待っていたのだが、運命のときが到来したのだろうか、堪能の蹴った鞠がそれて、高俅の頭の上に落ちかかった。
鞠で名だたる高俅が、うろたえるはずもなく、落ちかけたその鞠を、即興的に、鴛鴦拐という技で端王に蹴り返したところ、端王は喜んで、始めて高俅に気づき、「誰だ、お前は」と問うたのに、高俅は頭を地にすりつけ、「私は王都尉の使いで、文鎮と筆立てをもって参りました高俅というものであります、お手紙がここに」とおそるおそる奉れば、端王は開いて大変喜び、文鎮などを小姓に命じて取り収め、さて高俅に向かい、「お前はたぐいまれなる鞠の使い手だ、いまここで鞠を蹴ってみろ」と命じ、高俅は再三再四拒んでいたが、それで許されはしなかった。
あまり断るのも却って失礼だと、やがて鞠遊びに加わり、いまこそ本領を発揮するときだと思ったので、秘術を尽くして王の気に入るように努めた。
鞠は操られたかのように高く上がっては低く飛び、逸れることがなかったので、端王はますます褒めあげ、すぐに宮中に留め置き、王都尉のもとへは返さなかった。
王都尉は高俅が帰ってこないので、妙に思っていたが、次の日、端王が人を介して王都尉を招き、かの文鎮をくれた礼を言い、事のついでのように、「昨日使いに来た高俅は、鞠がひどく上手なので、私はあの者を近くに置いておきたい、どうか許して欲しい」というので、王都尉は、「殿下がお気に入られたことは、彼のこよなき幸せです、長く留めおかれるよう、私も願っております」と答えたので、端王は大変喜んだ様子で、様々に都尉をもてなしたので、王都尉は思いもかけず、面目を施して、暮れになって家に帰った。
これより高俅は、片時も端王の側を離れず、言葉巧みに、ご機嫌を取りながら仕えていたので、端王はいよいよ彼を愛して、代わる者がいないほど頼りにしていたが、いまだ二月も経ないうちに、哲宗皇帝が崩御し、子供がいなかったので、文武の百官、端王が担ぎ出され、皇位につき、徽宗皇帝と号せられた。
玉清教主、微妙道君皇帝のことである。
この帝の治世になってからも、天下はますます泰平で、ある日帝が高俅を召して言うには、「私はお前を重く用いようとしているが、戦功でもなければ、軽々しく地位を上げるわけにはいかない、そこで、かねて枢密院に内々に命令を下して、お前の名を通じておいた、遠からず出世の日が来るだろう」と密かにお伝えになったので、高俅は拝伏して、「お恵み、身に余ることでございます」と答えたが、帝はとにかく彼を寵愛し、未だ半月にならぬのに、殿帥府の大尉に命じた。
高俅はにわかに大臣の列に加わり、それから高殿帥、また高大尉と称せられ、吉日を選んで殿帥の役所に引き移れば、属官たちが大勢集まり、各々名札を提示し、高俅は名簿と引き合わせてみていると、その中でただ一人、八十万禁軍の教頭、王進というものだけが来ていなかった。
この人は先頃から、病のために役所を休み、そのことを前の殿帥大尉に断って、家で保養していたが、妻はなく、母が一人いた。
ところが、高俅はその日王進が来ないのを見て大いに怒り、「あ奴、病気にかこつけて、俺を侮っておる、急いで引きずって参れ」といらだっているので、当番の小役人が王進の家に走り、しかじかと告げれば、王進は大いに驚いて、やむを得ず病を押して、忙しく服を着替え、使いの者とともに殿帥府に行き、身を折り腰をかがめ、礼羲を厚くして挨拶したが、高俅が眼を怒らして言うに、「お前は都軍教頭王昇がせがれであろう、お前の父親は街で棒を使い、薬を売るのを生業とし、何の武芸もなかったのに、先の殿帥が眼識がなかったから、お前を教頭として取り立てたのだ、それなのに身の程を知らず、誰の後ろ盾があって私を侮るのだ」とののしるので、王進は畏まって「私は全く大尉を侮っているわけではありません、病がまだ治っていないのです」といえば、高俅はますます怒り、「お前の言うことは支離滅裂しておる、本当に病ならば、どうしてここに参った」と責め立て、王進が「大尉の命令を否みがたく、病を押して参りました」と答えも終わらぬうちに、高俅は声を荒げ、「この愚か者は甚だ無礼である、引きだして鞭を与えよ」と息巻いたが、役所の者たちはみな王進と仲がよかったので、みなでなだめて、「大尉殿が新たに職につく喜ばしいときに、人を罰することはよろしくありません、どうぞ彼を許してやってください」と様々に諫めれば、高俅もようやく顔色を和らげ、「各々の言葉を無視することもできないので、今日のところはまず許し、明日また吟味することにしよう」と言ったとき、王進は始めて頭を上げて、高俅の顔をはっきりと見たのだが、見覚えのある顔なので、驚きながらも役所を退き、心のなかで思うには、私の命ももはや保たれまい、高大尉はどんな人物かと思ったら、都の幇間高二ではないか、彼は前年、棒を使うことを学び、我が父に手痛く打ち据えられ、四、五ヶ月立つこともできなかった、それがいまでは殿帥府の大尉になったので、その立場に乗じて、古い恨みを晴らそうとするだろう、自分は部下なので、とてもやり過ごすことはできまい、どうしたらよかろう、とひたすら憂いもだえて、やがて家に帰って、母にこれこれと語れば、母もその因縁を聞いて深く嘆いて、母子言葉もなく涙ぐんでいたが、しばらくして母が言うには、三十六計逃げるにしかずとも言います、逃げるあてはあるまいかと問うので、王進は思案して、「母上の仰せ、理にかなっていると思います、延安府というところに、种国司という方がおられます、辺境を守っておいでですが、その部下たちは都に来るごとに、私の弟子として、棒槍など学ぶものが多いので、そこを頼りにこの救難を逃れましょうか」と囁けば、母もこれに賛同し、逃げ出す準備を整えて、王進はその夜、二人の付き人を呼び出して「私は病も癒えたので、お礼かたがた酸棗門の外にある嶽廟に参詣しようと思っているので、お前たち二人は夜のうちに廟に行き、早くから門を開かせ、祭りの贄などを調えて、私が詣でるのを待っていなさい」と言えば二人は心得て、家を出て行ったので、王進は自由に貯めてあった金銭を懐に収め、衣服などを荷造りして、馬屋から馬を引き出し、行李をくくりつけて、母をその上にのせ、自ら手綱を取って夜の明けぬうちに西華門を走り出て、延安府を目指して旅立った。
さてかの二人の付き人は、夢にもこのことを知らず、廟の側にいて、ひたすら王進を待っていたが、日は高く昇っても影も形もない。
あまりに来ないので、一人が帰って、家のありさまを見てみると、門が閉じていて裏には人気がない。
これは怪しいと疑い、またもとの廟に戻り、もう一人にこのことを告げ、二人一緒にいろいろなところを訪ねてまわったが、王進もその母もどこに行ったのか、誰も知るものがなく、その有様が逃亡したようであったので、その日の夕方、二人は殿帥府に行って、事の次第を訴えれば、高俅は大いに怒り、すぐに文書を諸方へ送って、王進を捕らえようとした。
その間にも、王進母子は、その暁に都を離れ、野を過ぎ、山を越え、道を十日ばかり行ったところ、ある日の黄昏時に宿を過ぎたところ、その先には行けども行けども宿屋はなく、ただ林の中に灯火の光がちらちらときらめいているので、王進は近くによってよく見てみると、大邸宅があり、四方の壁の内側には柳が二、三百本植えられている。
門内をうかがいつつ呼んでみると、一人の下僕が現われ、なぜここに訪ねてきたかと問うので、王進は「私は老いたる母を連れた旅のものですが、あまりに道を急いだもので、宿を通り過ぎてしまい、夜になってしまったので困り果てていたところ、お宅を見かけて参ったものです、一夜、庇を貸してもらえないでしょうか」と礼儀を尽くして、丁寧に頼めば、下僕は家の中に走り入り、主の大公に告げれば、主は情けがある人物で、たやすく引き受け、王進母子を呼び入れさせた。
王進は宿を借りることができたことに安堵し、母を馬から下ろし、馬を柳の木につなぎ止め、かの下僕に従って屋敷に入り、麦打ち場の上に荷物を置き、奥の間で主の大公に対面した。
この大公は、年の頃、六十を超えたくらいだと思われ、髭も髪も白く、頭に塵を遮る頭巾をかぶり、羽織を着て、腰には黒の組帯を結び、足になめし革の靴を履いていた。
王進が近くによって礼を述べると、大公も礼を返し、「客人は気を楽にしてくだされ、旅人は露霜にそぼ濡れて、苦労が多いことでしょう、あなた方母子はどこの人で、どこへ向かわれているのですか」と問うので、王進は「私は、姓は張氏、もと都の商人ですが、運に恵まれず元手を失い、どうすることもできなくなったので、延安府の親類を頼りに赴くところですが、今日は道を急いで、宿屋を行き過ぎてしまい、お世話になっている次第です、宿賃はお払いしますので、よろしくお願いします」というと、大公は「そんな気遣いは無用じゃ、さぞかし腹も空いていよう、夕食を差し上げよう」と、下僕に命じて食事を出させ、酒を温めさせ、厚く母子をもてなし、また、王進が牽いてきた馬にも秣を食わせて馬屋に引き入れさせ、自らは旅の話などを聞いているうちに、食事も終わったので、また下僕に命じて客間に案内させ、ゆっくり休めるよう布団は暖めてあったので、王進母子は行き届いた親切に喜び、枕を引き寄せて眠りについた。
さて、次の日になって、夜も明けて久しいのに、王進母子はまだ起きてこない。
大公が自ら客間の前でうかがってみると、うちからうめき声が聞こえるので、怪しみつつ、「客人、夜が明けましたぞ、まだ起きませぬか」と呼びかければ、王進がすぐに出てきて、「もうとっくに起きているのですが、母上が、毎日馬に乗って疲れたのか、病にかかったのか、胸が痛いと夜中苦しんでいるので、介抱していました」というので、大公は驚いて、「それではうめき声は母上ですか、旅の途上で病んだとすれば、どれほど心細くお思いでしょう、いつまでも逗留して、ゆっくりと保養なされ、幸い我が家には胸に効く妙薬があります、まずはこれを試してみなされ」と薬を与え、まめまめしくいたわってくれるのに、母子ともに感謝し、一週間ほど逗留して養生すると、母の病もようやく癒えた。
そこで明日にも出立しようと王進は、馬屋に行き、馬の様子を見るとき、空き地で一人の若者が諸肌を抜いて棒を使っているが、その白くふくよかな身体には蒼い龍を刺青して、年の頃は十八、九に見えた。
王進は彼が棒を使うのを見て、「よく使えてはいるが、まだ隙があり、もののようには立たぬ」と思わず声を発したのを、若者は聞きつけて大いに怒り、「俺がこれまで、七、八人の師匠について武芸の奥義を究めているのに、お前はなんのつもりであざ笑うのか、打ち据えてくれん」と息巻いて、走りかかろうとするところに、大公がやってきて、「止めよ、止めよ、客人に無礼をするな」と叱りつけ、王進に向かって、「客人は、よく棒を使うようだ、あ奴は我がせがれで、術に足りないところがあるようなら、教えてやってください」といい、若者に向かっては、「お前は早く客人に指南を受けよ」と言えば、若者はますます怒って、「父は彼が言うことを本当だと思っているのですか、私はまず彼と試合をして、もし負けたなら弟子になりましょう、勝ったらおっしゃることは聞きかねますよ」と言って、一歩も引く様子がなかったが、王進はただにこにこして彼と争おうともしなかった。
大公はこの様子を見て、「それでは息子と試合をして、うち伏せてやってください、たとえ打ち殺されることがあっても、自業自得ですので、少しも恨みには思いません」と言って再三請われるので、王進もいまは黙っていられなくなって、「ご無礼はお許しください」と言って、槍かけにあった手頃の棒を選び、ゆっくりと立ち向かい、まず旗皷という型を使い、棒を稲妻のようにひらめかせて見せたが、若者は遠慮会釈もなく、ただ一打ちに向かってくるのを、王進はわざと棒を引き、二、三歩後ずさりした。
若者は先手を取ったと、踏み込んで打とうとするところを、王進は素早く身をかわして打ち返せば、若者はしかと受けとどめた。
王進はこのとき、打ち込めば打ち込めたが、傷つけないように勝ちを得ようと思い、またその棒を引きほどき、脇の下へ突き入れたのがはねるように相手の棒をはじき飛ばし、若者は後へ倒れかかったので、王進は急いで棒を投げ捨て、若者を助け起こし、「痛かったであろう、許してくれ」と挨拶すれば、若者は身を起こして頭を下げ、「私は眼がついていながら、真の豪傑を知らず、暴言を吐いたことが恥ずかしいです、これまで学んだ武芸はみな無駄でした、願わくは無礼の罪を許し、ご指南お願いします」と心から言っているので、王進はにっこりして、「私たち母子、思いがけずここに宿を借り、厚い恩を受けたので、せめて御身に棒の一手を教えて、恩に報いることにしよう」と頼もしく答えたので、大公も大層喜んで、すぐに酒宴をもうけ、母子ともに円座で酒を酌み交わし、大公は王進に向かい、「客人の武芸は尋常ではないようです、きっとどこかの教頭ではないですか、よろしければお名乗りください」と言えば、王進は答えて、「いまは何を隠し立てしましょう、始めに張という商人だと申したのは偽りで、実は私は東京八十万禁軍の教頭王進というものですが、かようかようの難儀にあって、母子して都を逃れ、延安府におられる老种経略相公にゆかりがあるので、彼の地を目指して赴く途上で、母の病によってここでお世話になり、母も元気になったこと、莫大な恩を賜ったので、身の上を明かしました」と言って、かの高俅のずるがしこい悪さまで、すべて物語れば、大公父子は始めてその素性を聞いて、驚き且つ残念がり、だからこそ尋常の人物ではないと思ったのだ、と嘆賞して、ますます敬い語らううちに、王進がまた言うには、「こう言えば自慢のように聞こえるかもしれませんが、ご子息のいままで学んでいた武芸は、ただ華やかなばかりで、戦場の用には立ちません、私が指南すれば、程なく上達するでしょう」といえば、大公父子は大変に喜んだ。
しばらくして大公が王進に物語るところ、「それがしは先祖から、この花陰県に住み、名主を務めていますが、向かいの山が少華山です、またこの村は史家村といって、およそ三、四百の家があり、村中の民はすべて姓は史氏です、また私のせがれはこれがただ一人で、その名を史進といいます、幼いときから農業を嫌い、槍や棒ばかりを好んでいたので、母はこれを悲しみ、前年身まかりました、しかしそれがしは、彼が好むままに、強く制しもせず、また金銭も惜しまずに、多くの師匠を選び、何年も武芸を習わせ、また腕のいい彫り物師に頼んで、彼の肩、肘、胸、腿のあたりにはすべて九つの龍があります、これによってこの県の人は、彼を九紋龍史進と呼んでいます、教頭が我が子の面倒を見てくださるなら、厚く報い奉りましょう」と丁寧に頼み込むので、王進は喜んで、「心やすく思ってください、私が体得したほどの武芸は力を尽くして指南いたします」と引き受け、史進と師弟の契約をし、ここに逗留して、毎日彼に十八般の武芸、一々始めから指南した。
そもそも十八般の武芸とは、手矛、槌、弓、大弓、手斧、鞭、盾、剣、鎌、投げ棒、斧、まさかり、鉤矛、鉾、楯、棒、槍、熊手である。
光陰は矢の如く、王進母子が華陰県に来て、半年ばかりとなったが、史進は十八般の武芸十分に習ったので、王進はなお心を尽くして、いくつもの奥義を伝え、いまは自分に劣ることもなくなったので、王進は深く歓び、つくづく思うには、史大公父子の情けによって、数ヶ月の間ここに逗留させてもらったが、ようやくその恩にも報いたので、近いうちに延安府に赴くことにしようと、ある日大公と史進に別れを告げ、これまでの礼を述べたが、史進はひたすらとどめて「先生、どうして急に旅立とうとするのです、なんの心置きもなく逗留して、ここにお住みください、私は貧しくはありますが、先生たちの面倒は見させてもらいます」と言ったが、王進は「私が母とともにここで安楽に世を送ることは、こよなく幸せだ、だが、もし高俅が知って、この家に追っ手がかかるようなことがあれば、あなたたち親子を巻き込んでしまう、それは私がもっとも憂慮するところだ、どれほど止められても、とどまるべき身ではないのだから、明日出発しようと思う、延安府というところは、土地が肥えて、仕事も多くある州なので、身を立てることもできよう、まずはこのまま別れることにしよう」と言って、いくら止めてもとどまる気配がないので、史進父子は深く別れを惜しみ、別れの酒宴をもうけ、二巻きの緞子と百両の金を花向けにして、武芸指南のお礼とした。
さて、王進は次の日、荷物を馬にくくり、母をその上に乗せて、大公と史進に別れを告げ、延安府をさして旅立った。
2017年9月8日金曜日
滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)2
○洪大尉誤って妖魔を解き放つ
翌朝、朝飯も終わったので、今日は物見遊山でもどうです、と住持が誘ったので、洪信は大いに喜んで、多くの従者を引き連れて外にでると、村人はその左右にしたがって、あちらこちらの案内をする。
洪信主従が三清殿をみると、その壮観さは都にも稀なものである。
左の廊下には九天殿、紫微殿、北極殿があり、右の廊下には太乙殿、三官殿、駆邪殿があって、太乙真君、紫微大帝、天丁力士、南極老人、二十八宿の星君、三十二帝天子の木造が位階にしたがって安置されている。
洪信はこれらのものを見終わって、右の廊下の奥へ行くと、またひとつの別殿があって、四方の壁は湿気を通さないように、胡椒をつきこんだ赤い土で、正面の二つの扉は丹で塗った格子になっている。
門の表には大きな錠がかけられており、錠の上には封がしてあり、封の上には数え切れない朱印が押してあって、軒下の額には伏魔之殿という文字が見える。
洪信はこれを見て、「どういうわけで、こんなに厳しく錠をかけて封までしてあるのだ」と問うと、住持が答えて「当山の祖師、大唐の洞玄国師が魔王をこの殿内に封じ込めたので、代々の天師が自ら封印を加え、子々孫々にまで開くことをお許しになりません、もし侮って魔王を出してしまうようなことがあれば、たちまち世の中に災いが生じると言うことです、八、九代天師が変わりましたが、洞玄国師の戒めを守ることかたく、銅の煮汁を錠の隙間にかけ続けていますので、誰もこの中がどうなっているか知るものはいません、私も住持になって三十年になりますが、ただ伝え聞くだけです」と語るのを、洪信は聞いて怪しみ、ここは一つ魔王とやらをみてやろうと思い、住持に向かって、「お前たちこの門を開いてみろ、魔王の正体を見てみたい」といえば、住持は驚き、「それはとんでもないことを命じられる、洞玄国師が厳に戒めを残し、それ以後誰もこの殿を開くことを許されませんでした。何より恐ろしいのは洞玄国師の残された戒めです」といいも終わらぬうちに、洪信はからからとあざ笑い、「お前たちは自分勝手に怪奇なことを伝え、愚民を惑わし、この殿をつくり、魔王を封じ込めるといって、自分の家の道術に箔をつけようと計略だろう、わしは若いときから諸子百家の本を読んでおるが、魔王を封じる法などは聞いたことがない、世の中の人がなんと言おうが、わしは決して信じないぞ、さあ、この中をみてやろう」と引く様子が見えないので、住持がまた「大尉がもしこの殿を開けば、最後には天下の病となるでしょう、よくよくお考えください」と諫めれば、洪信は腹を立てて声を上げ、「お前たち、すぐに聞かないなら、都に帰り、龍虎山の道士たちが自由勝手に偽りを述べ立て、魔王を封じ込めたと称して、愚民を惑わし、自分たちの術を売りつけていると申し述べて、すぐに山から追放してやる、これでも聞かないか」と目を怒らして肘を張り、にらみつければ、住持もその弟子たちもその権威に恐れ、もしこの上逆らえば、山の滅亡を招くことになろうと、従者や職人たちを呼び集め、まず封をはぎ取り、金槌で錠を砕き、門を開いて我先にと入っていったが、数百年物間太陽の光を受けていなかったので、黒煙が立ちこめ、東西南北もわからず、冷気が肌をおののかせた。
まさにここは人跡未踏の地であり、妖怪が往来する住みか、両の目は開くが盲目と同じで、手のひらも見えない有様なので、洪信は命じて多くのものに松明をともさせ、四方に振ってどこをみても、遮るものがなく、ただ部屋の中央に、2,3メートルほどの石碑があって、その下には石の亀がある。
亀は既に土の中に埋没して、半身をあらわにしているだけである。
石碑の表を見ると「鳳篆龍章」と一般には見られないような異様な文字だけが彫りつけてある。
裏面を見るとこちらは普通の文字で、「洪信に遇いて開く」と記されている。
これは天罡星、地煞星という星々の世に出るときが至り、宋朝に忠臣義士があらわれる前兆であり、洪信がこれを開くことは、洞玄国師はかねて察知し、文字に記してあったのだ。
ああこれは実に天の運命と言うべきだろう。
忠義の人をもって魔王としてあったのは、侫人が見れば魔王とし、賢人が見れば忠義として賞めるからである。
邪道と正道とは表裏一体であることを意味する。
さて、洪信はこの文を見て大いに歓び、住持に対して言うには、「お前たち石碑の後ろを見よ、数百年の昔から、わしの姓を彫ってあり、まさにわしが開くことを指し示しておる、つらつら思うに、魔王は石碑の下に蟄居しておる、早く人夫を増やして、掘り崩させよ」とかさにかかって言うのを、住持はおそるおそるまた諫めて、「大尉殿が掘り返しますと、必ず天下に災いが生じて、万人は一日も安らかでいられないでしょう、ただこのままにしておいてください」と言い終わりもしないうちに、洪信はからからと打ち笑い、「愚か者よ、明らかな証拠があって、わしが開くと刻んでいるものを、何でそのままにしておけようか、早くせよ」といらだち、住持の諫めなど聞き入れず、自ら命令して人夫を集め、石碑を倒させ、その下を半日ばかり掘って、ようやく亀が全身をあらわした。
皆で力を合わせ、この亀をどかし、その下を70センチばかり掘ったとき、板のような周りが30センチばかりの青い石があった。
洪信はこれを見てますます勇み立ち、この石蓋を取りのけさせれば、下には穴があって、その深さがどれほどなのか見当もつかない。
まさにそのとき、天が砕け、地が落ち込み、万本の竹が一度に裂け、百千の稲妻が墜ちるような音がして、雲か煙か、一道の黒気が穴のなかから立ちのぼり、殿の棟桁突き破り、空にたなびきつつ、百以上の金光に砕け、四方八方に飛び去った。
皆これを見て、驚き恐れない者はなく、一斉に逃げだそうとして押し倒され、踏みつけられ、慌てふためいて怪我をする者が多かった。
洪信も、こけつまろびつ、廊下の端まで逃げ出して、顔の色は土のようになり、呆然としていると、住持たちも集まってきて、息をついてなすすべを知らない。
しばらくして皆ひとごこちついたところで、住持が洪信に向かって言うには、「そもそもこの伏魔殿というのは、その昔、洞玄天師が法力をもって、三十六の天罡星、七十二の地煞星、合わせて百八の魔王を封じ込め、上には石碑を立て、碑の表には龍章鳳篆、天府などの文字を彫りつけ、長く魔王を世に出すまい、と誓ったものであるのに、大尉殿は侮って放ってしまったので、民の災いを祓うための勅使ではなく、苦々しくも、却って災いを招いたことになります」とかき口説くので、洪信は面目を失い、急いで身支度をして、都に帰ってしまった。
かくして、洪信は日中には歩き、夜には宿り、道すがら巷の噂を聞いてみると、疫病の災難には、信州龍虎山の張天師という道士が都に来臨して、七日七夜の祈祷によって、民の病をことごとく除き去り、再び鶴に乗ってもとの山に帰っていったと褒めそやしているので、洪信、これを聞いて住持が言ったとおりだったと嬉しくなり、都に帰った翌朝のこと、帝に会い奉り、「張天師は神通力であっという間に都に着いたようですが、我々は歩きで道中はかどらず、要約昨日都にたどり着きました」と申し述べれば、帝はそれをお聞きになり、恩賞を賜り、元通りの役職に就くようにと命じた。
さて、あの天罡星、地煞星はいかなる変化を遂げるのか、それは次の巻で。
2017年9月7日木曜日
滝沢馬琴訳『水滸伝』(冒頭ちょっと)1
馬琴の『南総里見八犬伝』が『水滸伝』にインスパイアされたものであることはよく知られたこと。
馬琴はまた、『水滸伝』を訳してもいる。
つれづれなるままに訳してみたことがあるので、といっても冒頭のわずなか部分だが、ご紹介。
馬琴訳の特徴は、
1.中国の明代の小説、『三国志演義』や『金瓶梅』などで、地の文にはさまる、詞(一種の詩)の部分を全く省略するか、地の文に繰り入れている。
2.『八犬伝』に見られるように、英雄たちの行動をなんどか「仁義礼智忠信孝貞」的なものとして動機づけようとしている。
3.中国語と日本語の違いもあり、読本が流行した江戸後期のせいもあるが、現代の翻訳を読めばわかる通り、本来は短い文章であるはずが、だらだらと続く長い文章になっている。
というのがおおまかなところ。というわけで、
初編巻之一
○張天師祈って疫病を払う。
大宋の天子、仁宗皇帝のとき、嘉祐三年三月三日寅の日、主上が紫宸殿におでましになり、朝の挨拶をお受けになったが、三公百官礼儀正しく、各々の位に従い、帝を拝するさまは、玉砂利の春の庭に見合った、めざましい光景だった。
殿頭司、諸司百官に向かい、「なにか報告があればお聞かせしろ、なにもなければ退出するように」と申せば、宰相超哲、参政文彦博の二人が列を進み出て、「いま都では疫病が大いに流行して、民百姓死ぬ者が非常に多くなっております、願わくば仁政を施し、この災いを祓いのぞき、民の救難を救われますよう」、と言葉を揃えて申し上げれば、帝もっともなことだとお聞き入れになり、囚人を許し、税を免除、また、各寺院に祈祷を命じた。
しかし、この年の疫病は勢いがあり、朝症状が出たものが夕べには死に、親は子を失い、妻は夫に先立たれ、その嘆きは計り知れないものがあった。
帝はいよいよ心安らかにいられないので、再び百官を呼び集め、「どうしたらよかろう」、と問われると、笵仲淹という者が言うには、「信州の龍虎山に、計り知れない神通力を持つ道士がおり、その名を嗣漢天使張真人、略して張天師ともいわれております、しかも彼の家には天災を祓う秘法が伝えられて、三千六百分、羅天大醮と名づけられています、大変珍しい霊法とのことです、急いでこの道士を招じて、疫病は祓わせれば、民の病気もたちまち快癒し、みな安堵することは間違いありません」、とはばかるところなく述べれば、帝も感じ入って、大尉洪信を勅使とし、張天師を招くよう決めると、洪信は勅書を錦の袋に収め、お香を玉の箱に盛り、従者を多く引き連れて、次の日に都を立った。
洪信は急ぎの使いだからと、その日に東京を離れ、山を馬で越え、川を船で渡り、行き行くほどに、目的地に着けば、役人たちが待ち受け、龍虎山に案内すると、山の者たちもかねて知らせを聞いていたので、鐘を鳴らし、鼓を打ち、提灯を下げ、天蓋を連ね、山を下りて、勅使を迎えた。
洪信は馬から下り、宮殿を眺めると、松は屈折して風に吟じ、楼閣は段をなして日に輝き、道士が霞を飲む窓、弟子が薬を擂る部屋が望まれ、水は軒下を流れ、山は垣の後を巡り、ここでは鶴は頂が赤くなり、亀の背には緑毛が生え、鐘が鳴れば、四方に響き渡る、この世のものとも思えない里なので、洪信はひたすら驚き、誘われて客殿の上座に着くと、住持が遠路の疲れを慰め、勅諚の趣を問うので、洪信は答えて、「いま都に疫病が流行して、十人に七、八人が死んでおり、これを帝深く嘆いて、張天師を都に招いて、この疫病を祓い、民の苦しみを救うために、私が使いを引き受けてきたのだ、張天師はどこにいる、一刻も早く対面したいのだ」、といえば、住持が答えるには、「当代の天師はその生活が尋常ではなく、清きものを好み、穢れを嫌い、人と交際するのも面倒だと、自ら山の頂に庵を結び、常に真をなし、性を養って、軽々しく世間に出ることがないので、たやすく会うこともなりますまい、まずしばらくは休息なされるがいい」、といって別室に案内し、茶を出し、水陸の珍味でもてなしたが、洪信は、張天師が山の頂にいて、容易に会えないと聞いて、落ち着くこともできず、再び住持に、「張天師が頂に住んでいるなら、どうやって呼び降ろすのか」と問うと、住持は、「天師は普段は山中におりますが、神通力のままに、あるときは霧や雲に乗り、峰に座り谷に遊び、そのおられるところがはっきりせず、私なども常にお目にかかれるわけではありませんので、勅書を賜って、お呼びするわけにも参りませんし、人を迎えにやることもなりません、とはいえ、帝が民の疫病を払わせるために、はるばる勅使をお寄越しになったのですから、張天師もこれを他人事とは思いますまい、大尉殿におかれましては、いま一点の真心を尽くし、斎戒沐浴して清らかな衣をまとい、従者を一人もつけず、自ら勅書を背に負って、手に龍香と、香炉をもって歩いて山に登り、信心礼拝をあらわして訪れあれば、張天師もまた、帝の慈しみの深さと、大尉の真心の厚さとを感じ取り、容易にお会いすることも適いましょう、かえすがえすも大尉様は万民のために自らの位のことは忘れ、そのようにしてください」、というので、洪信は大いに喜び、「私は都を出る日から精進を重ねてここまで来た、なんで信心が薄いことがあろう、必ずお前のいう通りにしよう」と承諾して、宵にはその用意をして、次の日朝早く起きると、身体を清め、白粥を食べ、浄い衣をまとって、勅書を収めた錦の袋を襟にかけ、白銀の香炉を恭しく捧げ持って、麻靴を履いて、おぼつかないがただ一人、峠に向かい出発すれば、住持は多くの村人とともに山の下まで送りだし、詳しく道筋を教え、「山中は草が深く、道が大変に険しいですが、万民を救う功をなさんとするならば、怠りや慢心を起こすことなく、よく自己を律してお登りください、信心が揺らぐようなことがあれば、とても張天師に会うことはできますまい」と戒め、遂に別れて帰っていった。
洪信は、香を焚き、天尊の名を唱え、かろうじて山の中腹まで登ったが、思ったよりも大きな山で、峰は高く谷は深く、瀧がごうごうと流れ、藤は縦横に絡まり、虎の吠えるのが風に乗って聞こえ、猿の鳴きだす夕ベになり、月が山の側面に落ち、玉を青く染めなすかに思えるようになると、ようやく身体は疲れて、怠る心が生じ、しばらく立ち止まって、「私は高官である、都にいるときには、食事にはおかずをぎょうさん並べ、寝るには布団を幾重にも重ねて寝ていても疲れていたものを、浅ましい麻の衣に靴を履き、こんな山道をよちよち一人で登るのはなんのためだ、そもそも張天師はどこにいて、自分をこんなひどい目に遭わせるのだ」、と独り言をした折しも、くぼみから一陣の風がさっと起こり、その風が地上を過ぎるときには、木や草がみななびき、山が崩れるような咆哮とともに、躍り出たのは白い額をした虎、洪信は大いに驚き、叫びを上げて倒れるとき、目に入った虎は、毛は黄金を延ばした如く、爪は白銀の鉤そのもの、人を射る眼の光りは雷のひらめくものか、くわっと開く口の紅さは血を盛る盆に変わらず、鞭のような尾を打ち振り、矛に似た牙をむきだしにし、やがて洪信のもとに来て、右に左に巡って、吠えることまた一声、最後に後の山の坂を躍り越えて走り去ったので、洪信はやや人心地ついて、おそるおそる身を起こして、投げ捨てた香炉を拾って香を焚き、僅かに数十歩歩いたが、とかく難儀にあるのにいらだち、「わしは朝廷の大臣だというのに、帝は重用されることなく、こんな悪所へ遣わされ、数多くの難儀にあわされるのはどんな浮世の報いだというのか」、と口の中でぶつぶつと罵り、まださほど先に進んでいないところで、また風がにわかに吹きすさび、毒気が空を染め、山辺に茂った竹林がざわざわと響きつつ30メートルを超える大蛇が、鱗は月を反射してきらめき、舌は闇を照らし出す篝火のようにひらめいて、草木を倒しながら進んでくるので、洪信は魂が抜けたように、めまいがして倒れてしまった。
しかし、大蛇は彼を呑み込もうともせず、身を翻して蟠り、鎌首をもたげ、舌をちろちろと伸ばして、毒気を洪信の顔に吐き散らして、驚かすだけで、竹林のなかに入ってしまった。
洪信はしばらく死んだように横たわっていたが、ようやく息を吹き返して起き上がり、深く住持を恨んで、また「かの奴原め、勅使をたぶらかして猛獣が多い場所に誘い込み、こんな憂き目にあわせると安くは済まんぞ、もし張天師に会うことができなかったならば、住持を始め村人一同、そのままにはしておかんぞ」と怒り罵り、また登っていこうとすると、松林の後から笛の音がかすかに聞こえ、次第に近くなってきたので、洪信は怪しんで、その方を見てみると、一人の童子が牛に乗って出てきた。
頭を髻に結い、身には青い衣を着て、笛を鳴らしながら行きすぎるその姿が俗ではないので、洪信は「待て待て」と呼びとどめ、「お前は私を知っているか」と聞けば、童子はにっこりと笑い、笛で洪信を指して言うには、「御身がここに来たのは張天師に会うためだろう、今朝庵で張天師にお仕えしているときに、天師がおっしゃるには、『いま、都で疫病がはやっている、落命する民も甚だ多い、そのため、帝が洪大尉を勅使として、私を都に招き、三千六百分、羅天大醮の秘法を行わせて、この難局を打開しようというのだ、そこで私はいま、鶴に乗ってひとっ飛び都へ行くことにしよう』とおっしゃっていたので、定めて今頃は都にいることだろう、御身たとえ万難を排して庵にたどり着いても、張天師がいなければ仕方があるまい、この山には猛獣や毒虫が数多くいるので、不慮の事故がないとも限らない、早くお帰りなさい」というのに、洪信はますます疑い迷って、「お前は嘘を言ってわしを欺しているのではないか」という間にも、童子は答えもせずにまた笛を吹いて、林のなかに入っていった。
洪信、その後ろ姿を見送りつつつくづく思うには、あの童子、どうして自分のことを知っているのだろう、普通の子供ではないらしい、張天師の命を受けて、言外にそのことを示したのか、下手に疑っていたら、最後には猛獣の腹に収まってしまうかもしれん、と思い、引き返してもとの麓へ走り下れば、住持は村民とともに出迎え、部屋に誘って、山中の様子を問うと、洪信は目を怒らし、「わしが高い身分もかまわずに、一人で山に登ったのは、勅諚を第一とし、張天師を敬ってのことだ、それなのにお前たちはそれをないがしろにし、よくもひどい目にあわせたな、山のなかでは錦模様の虎が出て私を脅し、次に何十メートルもの蛇があらわれ行く道を遮った、もしわしの運がなかったならば、都へ生きて帰れないところだぞ、それもこれもお前たちが勅使を侮り、密かに溜飲を下げたのだろう、いいわけがあるならいってみろ」と息巻くので、住持は大いに迷惑し、「どうして私などが勅使を欺くことがありましょう、我々が意地悪をしたわけではありません、張天師が密かに大尉の信心を試みたのでしょう、あの山は猛獣が多いですが、天師の徳によって人に襲いかかることはありません。どうぞ怒りを収めてください」とわびるので、洪信の心もやや落ち着き、「わしの信心は確かなものだ、こんな苦労をものともせず、山頂まで登っていこうとするときに、笛の音がかすかに聞こえるので、何事かと思うに、一人の童子が牛に乗り、笛を吹いてあらわれ、わしに向かって言うには、張天師は今朝鶴に乗って都に飛んでいったので、庵の中には誰もいない、さっさと山を下りなさい、というので帰ってきたのだ」と物語れば、住持はそれを聞いて、「その童子こそ張天師でありましょう、知らぬこととはいいながら、残り惜しいことです」とひたすら後悔していたが、洪信は真剣には受け取らず、「彼がもし張天師なら、どうしてあんなに幼いのだ、受け入れがたいことだ」というと、住持はまた、「当代の天師は常識では計り知れない、童顔の仙人さまでありまして、あちらこちらにあらわれ、霊験を新たにされますので、世の人は導通祖師と尊んでいます、大尉さまも軽々しくみるものではありません」というので、洪信はようやく気がついて、「この眼がありながら、真の張天師を見破れなかった愚かさよ、どうしたものか」と後悔すれば、住持は重ねて「大尉さま、安心なされませ、張天師が鶴に乗り、都へ行くとおっしゃったのですから、今頃はもう参内なされているでしょう、大尉さまが都に帰る頃には、疫病も祓われ、民もまた枯れた草に慈雨を与えてもらったようになっておりましょうから、たとえ張天師と対面せずに帰られても、お咎めもないでしょう、まずお休みください」と様々に慰めたので、洪信はようやく落ち着いて、洪信は勅書を住持に渡し、住持は受け取って書箱に収め、酒宴をもうけて洪信をもてなした。
2017年9月5日火曜日
地獄の一丁目――森鷗外『百物語』(明治四十四年)
『百物語』というと対のように思いだすのが芥川龍之介の『孤独地獄』である。どちらもいわゆる大尽と言われる人物の歓楽を尽くした上での無為を描いている。
なおその上に、この二つの作品の間には、ある関わりがある。龍之介の『孤独地獄』は、母親に聞いた話として、幕末から明治初年にかけて今紀文と称せられた細木香以のエピソードを記している。ところで、大正六年から七年にかけて、鷗外は『渋江抽斎』の後、香以について短い史伝を書いている。鷗外はそこで龍之介に香以のことを尋ねている。
同じくこの史伝のなかで、『百物語』に言及し、昔、私はこちらもまた大尽として知られる鹿島屋清兵衛のエピソードに基づいてこの小説を書いたと述べている。ついでに言えば、ここでも鷗外流のexcuseがなされている。『百物語』を書いたとき、貧乏書生が大尽の境界を伺うことは僭越だという批評があった。しかし、「人生の評価は千差万別である」。かつて鷗外の家にいた婢は花魁を人間のなかでもっとも高貴なものとしていた。花魁が王であれば、華族も官僚も野暮な客であり、良妻賢母も肩身が狭くなろう。結局、ひとの価値観は異なるというごく平凡なことを言っているに過ぎないが、あるいは『澁江抽斎』『伊澤蘭軒』といったあまり世間に知られていない人物について長大な史伝を書き続けていることについてのexcuseも含まれているのかもしれない。それはともかく、『百物語』『孤独地獄』『細木香以』はこの順序で発表された。
『孤独地獄』はごく短い次のような話である。
細木香以はまた大通と言われる人物であり、幕末の文人や芸人の間に知り合いが多かった。黙阿弥などは、『江戸桜清水清玄』で紀伊國屋文左衛門を書くのに香以をモデルにした。その香以が、あるとき、吉原の玉屋で禅超という僧侶と知り合いになった。僧侶といっても花魁となじんでいるので、表向きは医者だということにしていた。この二人が、人違いがきっかけとなり仲良くなった。あるとき、この禅超の顔色がすこぶる悪い。なにか心配事があるのかと問うてみたが、これといってうち明けることもないらしい。これはきっと遊び尽くしたものが陥る倦怠なのだろう、と香以は(あるいは芥川龍之介は)解釈した。すると、禅超は急に思いだしたかのように、次のようなことを言った。
仏説によると、地獄は根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに大別することができる。おおよそ地獄というのは地下にあるものとされているが、孤独地獄だけは、何処へ行っても忽然としてあらわれる。目前にあるものが即地獄の苦難を現前する。自分は二、三年前からこの地獄へ墜ちた。すべてのことに永続した興味を抱くことができない。次々に対象を変えてみるが、それでも地獄から逃れることはできない。
それ以来禅超は姿を見せなくなった。ただ、金剛経の疏抄を一冊忘れていった。香以が晩年零落し、下総の寒川に住んでいたとき、常に机の上にあったのがその疏抄だったという。最後に龍之介はこう付け加えている。
一日の大部分を書斎で暮らしている自分は、生活の上から云って、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでいる人間である。また興味の上から云っても、自分は徳川時代の戯作や浮世絵に、特殊な興味を持っている者ではない。しかも自分の中にあるある心もちは、動もすれば孤独地獄という語を介して、自分の同情を彼等の生活に注ごうとする。が、自分はそれを否もうとは思わない。何故と云えば、ある意味で自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人だからである。
私には無くもがなの一文だと思えるが、芥川にすれば書かずにはおれないことだったのだろう。
『百物語』においては、冒頭で、「余程年も立つてゐるので、記憶が稍おぼろげになつてはゐるが」と書いているが、鷗外にとっては漢文の先生であり、『ヰタ・セクスアリス』では文淵先生として登場している依田学海とこの会で顔を合わせたことによって、時日が特定できる。依田学海はほとんど欠けることのない『学海日録』という日記を残しているからである。それによれば、明治二十九年、七月二十五日に百物語の記事が見られる。「廿五日。晴。炎暑やくが如し。汗出てやまず。歌舞伎新報社の招に応じて領国の花火を観、遂に墨水に至り、寺島村の喜多川荘に遊び、妖怪百物語をきく。終わりて園中の奇拵の装物をみる。これはいと興あり。されども児戯たるをまぬがれず。」とあり、小説では学海は途中で帰ったことになっているが、どうやら最後までいたらしい。
作中の「僕」がこの会に出席したのは、写真を道楽にしている蔀君の誘いによる。百物語というのは、大勢の人が集まったなかで、百本の火をつけた蝋燭を立てておき、化け物の話をするごとに一本ずつ火を消していく。すべての蝋燭が消えたとき、本物の化け物があらわれるという。「僕」が参加したのは好奇心による。
隅田川と神田川が分岐する部分にある柳橋の船宿から、集まった人々は、吾妻橋、白鬚橋を通り木母寺まで舟で運ばれて行く。別荘で「僕」は蔀君にこの会を主催した播磨屋に紹介される。「年は三十位ででもあらうか。色の蒼い、長い顔で、髪は刈つてから大ぶ日が立つてゐるらしい。地味な縞の、鈍い、薄青い色の勝つた何やらの単物に袴を着けて、少し前屈(まへかゞ)みになつて据わつてゐる。徹夜をした人の目のやうに、軽い充血の痕の見えてゐる目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前の方向を凝視してゐる。」付き添っている女がいるが、こちらも非常に地味で、流行り物を取り入れて目立たないように心がけているらしく、「薄い鼠が根調をなしてゐて、二十になるかならぬ女の装飾としては、殆ど異様に思はれる程である。」
「僕」の好奇心には、こうした催し物をするのがどんなん物であるかということも混じっていた。「百物語の催主が気違染みた人物であつたなら、どつちかと云へば、必ず躁狂に近い間違型(まちがひかた)だらうと丈は思つてゐた。」いま会ったように沈鬱な人物とは思っていなかったのである。
江戸時代の戯作に繰り返しあらわれるような、陽性でも陰湿でもかまわないが、ひとの耳目を集め、その中心になって歓びを感じるような大尽とは異なり、それこそ意地悪で、悪魔的な目つきをしたむしろヨーロッパのデカダンスに染まったかのような人物があらわれている。「僕」は播磨屋のなかに生に対する傍観者の姿勢を見て取り、「他郷で故人に逢ふやうな心持」がしたというが果たして播磨屋は同感の挨拶を返してくれただろうか。傍観者といっても、鷗外の場合、軍医としては最高の地位に登り、文豪としての名も確立し、生活を持ち崩すこともなかった。「子供に交つて遊んだ初から大人になつて社交場尊卑種々の集会に出て行くやうになつた後まで、どんなに感興の沸き立つた時も、僕はその渦巻に身を投じて、心(しん)から楽しんだことがない。」というが、こうしたことはつまりは対世間的な反応であって、自分の生を傍観者として見ることとは異なる。
「僕」は蔀君に播磨屋を紹介されるが、「此男は僕を一寸見て、黙つて丁寧に辞儀をした丈で」あり、作中で言葉を発することはない。結局「僕」は百物語の始まりを待つまでもなく、早々に帰ってしまい、二三日後に蔀君にその後の様子を聞いてみると、播磨屋も話が始まってしばらくすると、二階へ上がって蚊帳を吊って寝てしまったという。無言で徘徊する播磨屋という化け物がいる以上、すでに百物語という趣向の意味は根本から消え去っている。
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