2017年8月2日水曜日

症候としての小説――尾崎紅葉『金色夜叉』(明治三十年~三十五年)



 尾崎紅葉の『金色夜叉』は読売新聞に連載された。もっとも現在の多くの新聞連載小説が最後まで毎日掲載されるものだったのに対し、『金色夜叉』は六回に分けられている。明治三十年一月一日から二月二十三日、同じく三十年九月五日から十一月六日、三十一年一月十四日から四月一日、三十二年一月一日から四月八日、三十三年四月一日から五月十一日。表題もそれぞれ変化しており、「金色夜叉」前篇、「後篇金色夜叉」、「続金色夜叉」、「続々金色夜叉」、「続々金色夜叉」続篇、「続々金色夜叉」続篇と名づけられた。さらに単行本では、「前編」(明治三十一年七月)、「中編」(三十二年一月)、「後編」(三十三年一月)、「続編」(三十五年四月)、「続々編」(三十六年六月)として刊行された。三十八年七月の「続々編」では新たに「新続編」が付け加えられたので、紅葉が明治三十六年に、三十七歳という若さで、胃癌で死んだことを思うと、最後までこの未完に終わった作品を気にかけていたことがわかる。

 間貫一は少年から青年に変わろうとするころ、両親を失い、天涯孤独の身となったが、貫一の父親の恩を受けた鴫澤の家に引き取られて、学士になろうとしていた。鴫澤家でもその性格も実直であるので、末は娘である宮を嫁にして、家を継がそうとしていた。また、貫一とお宮もそのことに異存はなかった。

 ところが、金剛石(ダイヤモンド)をきらめかせた大富豪である富山唯継から嫁にしたいと申し込みがあったときから、親娘ともに心を動かしてしまう。貫一の気持ちを聞く以前に、縁談を進める。宮の父親からその話を聞いた貫一は、本人の気持ちを確かめるために熱海へ行く。そして、あながちこの縁談が親からの無理強いではないことを知る。怒りと絶望に駆られた貫一はそのまま姿を消す。数年を経て、彼は高利貸しとして姿を現す。

 『金色夜叉』は奇妙な小説で、物語そのものは単行本でいうこれらが描かれた前編の部分、つまりおよそ全体の七分の一程度で終わってしまうのである。熱海にある有名な銅像も、「一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・・・十年後の今月今夜・・・・・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見(み)せるから、月が・・・・・・月が・・・・・・月が・・・・・・曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ。」という同じく有名な台詞も前編の終結部にある。

 それ以降、貫一と宮は再会することになり、宮はひたすら二人で会うことを願い、あるいは貫一の学生時代の親友を通じ、あるいは手紙を出すことによって、接触を持とうとするのだが、貫一は頑なにコミュミケーションを避け続ける。それが延々と続くことで小説は中断している。

 『明治文学全集』の福田清人の「解題」によると、十年をかけてひとかどの財産を蓄えた貫一はある日悟るところがあり、自分は金のために失恋したのだが、金のために心中するものもある。そこで発心して、情死救済を提言し、五十人あまりの人間を助けて一文無しになるという結末、あるいはまた、宮はどんな働きかけにも答えてくれない貫一の応対に煩悶し、最後には発狂して一室のなかに閉じ込められ、夫は家に妾を連れ込む。それを聞いて貫一の頑なな心も解け、高利貸しも止めて自分のところに宮を引き取ることにする、といった展開が紅葉の書き残したものから推察されるという。

 おそらく最初の腹案が前者に近かったとすれば、書き継いで行くにしたがってまとまってきたのが後者なのだといえるだろう。ある意味、紅葉は江戸文学にもありそうな短編小説的な落ちを捨て去ることによって、自ら扱うすべを知らない西欧的な恋愛という分野に期せずして入り込んでしまったのではないだろうか。紅葉には翻訳も多く、西欧文学を多く読んだ。『金色夜叉』が外国の小説を種本としている説もある。しかし、『金色夜叉』は分厚い文庫本の量がありながら、貫一とお宮の精神は不透明なままである。主要な登場人物たちは、処理しきれない演算にフリーズするコンピューターのように、硬直したままに止まり続ける。

 そもそも宮は、前編の第三章に記されているように、貫一と強い絆で結ばれていると感じていたわけではなかった。貫一のことを憎からず思ってはいたが、貫一の思いの半分程度しか思っていなかった。自分の美しさを知っていたからである。「彼の美しさを以てして[わづか]に箇程の資産を嗣ぎ、類多き学士風情を夫に有たんは、決して彼が所望の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤より出でし例寡からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭ひて、美き妾に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のまゝなる如く、女は色を以て富貴を得べしと信じたり。」と宮は描かれている。女性の社会的進出の道が限られていた明治時代に、特別な才能はないが野心的な女性がこう考えるのはもっともなことである。

 夫となる富山唯継にしても、格別嫌悪感をそそる人物として描かれているわけではなく、たとえば、彼には友人を選ぶ基準があり、「彼は常に其の友を択べり。富山が交る所は、其の地位に於て、其の名声に於て、其の家柄に於て、或は其の資産に於て、孰の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。然れば彼の友とする所は、其等の一つを以て優に彼以上に値する人士にあらざるは無し。実に彼は美き友を有てるなり。然りとて彼は未だ曾て其の友を利用せしこ事などあらざれば、こたびも強に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、恁く勉めて交を求むるならん。故に彼は其の名簿の中に一箇の憂を同うすべき友をだに見出さゞるを知れり。抑も友とは楽を共にせんが為の友にして、若し憂を同うせんとには、別に金銭ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。」とあり、上昇志向はあってもそれによって強欲に利益を得ようとするわけではない。宮を妻に選んだのも、彼女が誰にもまして美しいことによる。それゆえ、自分の美しさを貫一に嫁ぐよりは高く換算していた宮と、価値観を同じくしていた。
宮は高利貸しに姿を変えた貫一を見て、やがて会うことを望むようになるが、会ってどうするつもりなのかもはっきりしない。宮は貫一に会って許してほしいと懇願するのだが、許しの保証として何を望んでいるのか判然としない。唯継と別れて貫一と一緒になることを望んでいるのでもなさそうである。また唯継に対するはっきりした嫌悪感が表面化するまでもなく、ひたすら気分が沈んで行く。

 また、貫一は高利貸しになることを、魔道に墜ちることだと自覚しており、その行動だけをみると、愛情より金銭を選んだ宮に対する報復として筋が通っている気味もあるのだが、貫一がなにを目的に高利貸しになったのかは曖昧なままである。金を儲けてなにかを企てるヴィジョンが垣間見えるわけでもない。宮に当てつけるためではないことは彼女に会おうとしないことからも明らかであるし、魔道とはいっても、やくざまがいに娘を女郎屋に叩き売るといった卑劣な手段に訴えるわけではなく、証文を片手にしつこく通い詰めるだけのことなのだ。

 要するに、別れたあとの二人は、両者の関係においてなんら意志的な行動がとれずに、膠着状態に止まり続け、どちらも何を望んでいるのかさえわからない。恐らく作者自身にもわかっていなかったに違いない。推察される結末の腹案のどちらをとっても、二人の膠着状態を解き放つものではないからである。このいつまでも解けない膠着が紅葉の暗闘のしるしとなっている。

 漢文学者で森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』で文淵先生のモデルとなっている依田学海は『続金色夜叉』の冒頭に文を寄せているが、もっぱら江戸の読本や中国の『金瓶梅』などを引き合いにだしている。色恋に、あるいは果てしのない欲望に落とし込めるのなら、紅葉には容易なことだっただろう。しかし、この小説の本質的なテーマは、ひとつの小さな裏切りがトラウマとなり得るのか、そのトラウマは治癒しうるのかにあって、貫一と宮の硬直した身振りは、その症候として読むことができる。

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