2017年8月24日木曜日

灰色のおしゃべり――ナタリー・サロート『黄金の果実』(1969年)



 原著の刊行は1963年。この本は、およそ四半世紀以前、池袋の古本屋、夏目書房で買った。裏表紙のなかに、短冊型の値段標が貼り付けられており、丁寧な古本屋であったらそうであったように、本が痛まないのようにパラフィン紙でカバーされている。久しく池袋に行っていないので、まだ、存在しているのかどうかわからない。もちろん、調べればすぐにわかることだが、調べない。実は池袋には行きつけの古本屋が2、3軒あって、夏目書房というのは、立教大学の正面にあった古本屋だと思うのだが、それもまた調べない。

 この原価700円の200ページそこそこの本を、私は3000円の大枚をはたいて買っている。当時ヌーヴォー・ロマンを盛んに読んでいた私は、4倍以上の値段になったのもものともせずに買ったらしい。ヌーヴォー・ロマンとして並び称された人物、ロブ=グリエ、クロード・シモン、ミシェス・ビュトール、ナタリー・サロートのうちではサルトルの序文が付されたナタリー・サロートの『見知らぬ男の肖像』を最初に読んだが、正直あまりピンとこなかった。その後関心はもっぱらロブ=グリエとクロード・シモンに向かってしまった。ロブ=グリエやシモンは、当時の先進的なフランス文学者、蓮實重彦や豊崎光一が盛んに言及していた。ロブ=グリエについては、ロラン・バルトが共闘したことも大きいだろう。それにロブ=グリエの文章には、翻訳を通じても伝わるような伝染力があり、いまでも、たまに、直接的な影響かどうかはわからないが、若い作家の文章にロブ=グリエ的な文体を感じることがある。

 この本を買ったのは、『黄金の果実』という題名が非常に魅力的だったからだ。『見知らぬ男の肖像』といい、『プラネタリウム』といいサロートの本の題名は素っ気ないものが多く、この本のように鮮明なイメージを与えてくれるものがない。そこに引かれて買ったのだが、おそらく記憶している限りにおいては、その後もロブ=グリエやシモンは読み続けていったが、なかなか本書に手が出ないうちに、ヌーヴォー・ロマンに対する関心が次第に薄れていって、それでなくとも敬遠しがちであったサロートには一層距離が生じ、四半世紀にわたって「積ん読」の状態に置かれることになり、それでも幾度かの引っ越しの際にはそれぞれ大量の本を処分したにもかかわらず、現に残っていたところを見ると、本にもまた時代がつき、渋さが加わっているものと無意識に感じたのか、これが酒であったなら、と言いたいところだが、酒は飲まないので、なかなか例えるものがないが、「積ん読」状態もここまで時間がたつと、なにか特別のことがあったときに読んでみようと思うものだが、特になにも特別なことはなかったが、気まぐれに誘われて始めて読んでみた。

 「黄金の果実」とは架空の本の題名である。存在しない本について書かれた小説と言えば、ボルヘスが思い起こされる。あるいは存在しない本の書評集を書いたスタニスラフ・レムもいる。しかし、彼らにとって存在しない本が、形而上学的夢想の結晶、真に不可思議なものへの扉を開くものであり、マラルメが詩において求めたように、世界を封じ込めるかのような、相反するものが一致し、不可能を可能にするような点を目指しているのに対し、「黄金の果実」とは、そうした夢想の対象になる本ではない。この本は、「黄金の果実」という本が出版され、次第に知識人たちのあいだで話題に上るようになり、後世に残るこの時代の記念碑的作品だと称賛されるのだが、次第にそうした空気が醒めてゆき、誰の話題にも上らなくなるまでの過程を描いている。


 従って、「黄金の果実」という本の内容について具体的に言及されることは殆どない。また、特別な登場人物も存在せず、ある種の空気のなかにあるおしゃべりが漂っているだけなのだ。「あの本は、思うに、文学のなかに、あるひとつの照応を補足するに至った特権的言語を導入したのであり、その照応があの本の構造そのものとなっている。これは、律動的記号群のきわめて新しく且つ完全な掌握であり、それらの記号群がその緊張によって、あらゆる意味域の内に存在する非本質的なものを超越するんだ。」と批評家らしい人物が述べるが、それは「黄金の果実」という本の特権的な内容を指し示すものではなく、ある空気のなかでいかにも批評家が言いそうなこととして描かれているに過ぎない。

 「黄金の果実」の評価が凋落していったとき、ある会話のなかでこんな一節が挿入される。「無気味な波の音・・・・・・足がのめりこむ・・・・・・彼が飛び込んだのは、こんな水気の多い土地なのだ。これを彼は、斧を手に、松明を手に、開拓しようなどと思ったのだ・・・・・・(中略)見渡すかぎり目に入るのは、泥まじりの灰色の拡がりばかり、生気のない形象がそこから現れ出ては、目に見えない波のまにまに、気の抜けたように旋転する・・・・・・」こうした無気味でモノトーンな空気のなかで、ある本が「傑作」という常套句から「駄作」という常套句へと落ちつくさまを、植物が光の方向に茎を伸ばすように、非人称的でありながら方向性をもつものを、この上なく散文的なおしゃべりの連続でもって捉えようとしていて、買ったときに期待したような鮮烈なイメージこそないが、時間をおいただけあって、濃厚な渋さは確実に伝わってくる。

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