2017年8月18日金曜日

背中のダイモン――ピエール・クロソフスキー『ディアーナの水浴』(1988年)







 アクタイオーンはフェニキアの王であり、ギリシャに文字をもたらしたとも言われるカドムスの孫である。クロソフスキーの著作のテーマとなるディアーナの水浴のエピソードは、オウィディウスの『転身物語』(田中秀央・前田耕作訳)によれば、次のようなものである。アクタイオーンはいつものように仲間たちとともに狩を行なっていた。ずいぶん獲物を得たので、その日は狩をやめて休むことにした。ところで、彼らが狩を行なっていた山には、ディアーナに捧げられた谷があり、そこに湧き出る泉で狩に疲れた女神は水浴を行うのを常とした。

 こうして、ティタンの娘がいつものように水浴びをしているとき、カドムスの孫は、仕事の手をやすめて、見知らぬ森のなかをぶらぶら歩きまわりながら、偶然この神聖な谷間にやってきた。やってきたというより、運命がかれをここへつれて来たのである。かれが泉のしぶきにぬれた洞窟に足をふみいれるやいなや、その姿をみとめた全裸の妖精たちは、あわてて手で胸をたたき、するどい叫び声を森じゅうにひびきわたらせると、いそいで女神のまわりに人垣をつくって見えないようにした。しかし、女神は妖精たちよりも背が高かったので、首から上だけは人垣から出てしまった。一糸もまとわぬ姿を見られた女神の顔は、太陽の光に照りはえた雲の色のように、あるいは深紅の曙光の色のように赧らんだ。かの女は、従者たちの群にとりまかれていたけれど、すこしからだをうごかし、なにかをさがすように顔をまわりにふりむけた。投槍が手もとにあればよいのにとおもったのだが、見つからないので、手近にある水を口にふくんで、若者の顔めがけて吹きつけた。そして、かれの髪を罰水でぬらしつつ、やがて来たらんとする不幸を告げる言葉をつけくわえた。「さあ、ディアナの裸を見たとふれまわるがよい––もし口がきけるものなら!」

 そして、アクタイオーンは鹿に姿を変えられ、自分の猟犬たちにずたずたに食い裂かれてしまう。『転身物語』はギリシャ・ローマ神話の集大成のような本である。この程度のエピソードは無数にあって、おそらく漫然と読んでいたなら、見過ごしてしまうだろう。クロソフスキーは、二つの要素を加えることによって、このエピソードを神の人間に対する顕現と人間の神に対する欲望とが交錯するこの上なくクリティカルでありながら、エロティックでもあるものとして再提示する。

 クロソフスキーが導入した二つの要素の一つは、ディアーナはギリシャ神話でいうところのアルテミスであり、公式的な神話においては、あるいは古来残されている彫像や絵画においては、そしてまた、オウィディウスもまたそれに従っているのだが、猟犬や妖精たちを伴い、山谷を駆け巡って狩をしている若く美しい女神であり処女神であるとされた。ところが、アルテミスはギリシャ神話特有の神ではなく、先住民族の女神であったものが混交されたものである。そこでは颯爽と山谷を駆ける気品のある娘姿ではなかったらしい。高津春繁の『ギリシャ・ローマ神話辞典』によれば、野獣に満ちた山谷を支配し、多産、誕生、人間、獣を問わず子供の守り神であり、エペソスで崇拝されていたアルテミスは多くの乳房を持つまさしく地母神としての姿を有しており、人身御供を求める地域さえあった。処女性と多産、淫蕩さを兼ね備え、毅然として人間を寄せ付けないようでいながら、生贄を求める残忍さがある矛盾した神格をクロソフスキーは導き入れる。もっともこのことは神話学者たちによって大いに研究されてきたことでもあり、クロソフスキー自身の創見があるわけではない。

 第二に導入されるのがダイモンである。ダイモンとは神と人間の中間にあるある種の霊的な存在であり、プラトンの描くソクラテスにおいては、間違いを犯さないようにその声によって警告を与えてくれるが、何をなすべきかについては教えてくれないものとされている。ところが、クロソフスキーにとってダイモンとは世界を構成する重要な要素となる。つまり、「無感動で不死である神々の領域」、「不死で感動性のある」ダイモンたちの領域、そして、「感動性のある死すべき人間たちの領域」に世界は分けられる。感動性のない神とそれを持つ人間の間には本来交通する手段がない。ところが奸智に長けたダイモンがそれを可能にするのだ。


 アクタイオーンがディアーナの水浴を目撃するのは、そしてディアーナが無感動な神であるにもかかわらず、羞恥というある種の媚態を身にまとうのは、泉の反映に身を委ね、ダイモンの感動性を利用するからであり、一方、ダイモンがその反映を簒奪して、女神の淫蕩さを拡大し、禁忌に触れようとする人間の欲望を操作するためであって、それによって神の顕現というこの上なくエロティックな体験をしたアクタイオーンはもって瞑すべきだろう。



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