2017年8月7日月曜日

黙示録なう――フランスス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録 特別完全版』(2001年)





 初公開は1979年で、特別完全版は53分の未収録部分がつけたされ、ほぼ3時間半の長さになっている。公開時に映画館で見て、完全版を見るのも数回になると思うが、回を重ねるごとに戦争映画としての側面が遠ざかっていくように感じられる。

 ベトナム戦争後期、ウィラード大尉(マーチン・シーン)は、カンボジアに独立王国を建設したカーツ大佐(マーロン・ブランド)の暗殺を軍上層部から命じられる。極秘の任務であるために詳細を知らせることなく、寄せ集めの部下が哨戒艇に集められ、ひたすら川を遡っていく。

 記憶が確かならば、特別完全版で付け加えられたのは、この遡行途上でのエピソードであったように思う。慰問団として川を極彩色に彩ったプレイメイトが不時着したのか、燃料と引き換えに身体を売る場面や、カンボジアに入植し、自らの文化を守っているが、もはや滅びつつある人種でしかないフランス人一家との出会いなど、公開時にはなかったように思う。

 公開時は、ベトナム戦争の記憶がまだ生々しいものであり、この映画こそベトナムの惨状を初めて描いたものだと喧伝されたが、時間を経るに従い、いわばそうしたアクチュアリティが洗い流されると、ドメスティックで、パーソナルな骨組みがあらわになってきたと言える。そもそもこの映画には戦闘場面などほとんど描かれていない。ギルゴア(ロバート・デュバル)は銃弾の降り注ぐなか部下にサーフィンを命ずるが、戦闘している相手が描かれることはない。黙示録的な状況においてもいまだ自らの欲望に忠実な人間の姿が戯画的にあらわれているだけである。

 この映画唯一のスペクタル・シーンといっていいジャングルをナパーム弾で焼き尽くす場面などは、第七の封印が開かれ、ギルゴアが大音量で流すワグナーの『ワルキューレの騎行』はまさしく天使のラッパであり、「血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。」あるいは、「松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」(「ヨハネの黙示録」)といった黙示録的光景を現出させる。

 問題は上流で王国を築いたカーツ大佐が、混乱を終結させた『ヨハネの黙示録』でいうところの「白馬の騎士」なのかどうかにある。

すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分の他はだれも知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

 ウィラードにとって川を遡る時間は、カーツ大佐の華麗な戦歴を記した資料に目を通すことで過ぎていく。彼にとってもベトナム戦争に正当性がないことは明らかである。カーツと同じような存在になりえたかもしれないという同一化を感じる。また、カーツを殺すことには父親殺しという神話的祖型がもちろんあらわれている。しかし、黙示録的な観点に立てば、カーツを殺すことは黙示録的な状況をそのままに宙づりにすることを意味している。黙示録は破滅的な世界を描いているが、当然のことながら、キリストの再臨によって大団円を迎える。確かに、カーツは白馬の騎士ではないかもしれない。しかし、ウィラードがカーツを殺すこともなんともいえぬ奇妙な後味を残すものである。地獄の釜の蓋が開き、そのままの状態で放置されるのだから。


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