2017年8月30日水曜日

我々には語る必要があるーリン・ラムジー『少年は残酷な弓を射る』(2012年)



 なんの前知識もなしに見たことがよかったかもしれない。ネタバレなどを鬱陶しく感じる方ではないが、「衝撃の結末」などとあらかじめ言われると、相当すれっからしなので、なんだそんなことか、肩透かしにあったように感じることが多い。例えば、デヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』などはその最近の例であって、いい映画で、それでがっかりするわけではないが、いくぶん損した気になる。

 この映画については原作も読んでいないが、原作映画共通の『少年は残酷な弓を射る』という題は苦心の痕がありありと見られるが、なにかちょっとキューピットやロビン・フッド、ウィリアム・テルなどを連想させるロマンティックな、あるいはセンチメンタルなもので、原題のWe Need to Talk About Kevin、直訳したら「我々はケヴィンについて語る必要がある」では冗長で売れないと判断したにせよ、いっそ簡潔に「ケヴィン」とでもした方が内容にはかなっている。

 内容を一切知らないで見始めた私は、『エクソシスト』や『オーメン』などの「恐ろしき子供たち」に類する物語だと思っていた。もっともいわゆる物語の時系列はバラバラに寸断されている。中年女性が孤独に暮らしている。その彼女と男性との出会い。長男が生まれその子供が幼いときの様子。次女が生まれ、長男は高校生になっている。およそこの四つの軸を基本にして、時間は現在と未来を頻繁に往復する。この四つの軸が時系列に収まるのは最終盤に至ってである。そこで初めて中年女性の孤独な暮らしの意味が理解されることになる。

 原題に出てくるケヴィンというのは主人公である女性に生まれた長男の名前であり、子供の時からなぜか母親に懐くことがない。ケヴィンは悪知恵も働く子であり、父親の前では大人しく従順な子供を演じるので、妻が夫にそのおかしさを訴えても、気のせいや子供にはありがちのムラっ気で済まされてしまう。

 しかしながら、ある意味母親とケヴィンは家族のなかで真に葛藤を経験した二人であり、母親が孤独な生活を送ることは、他の家族には許されることのない「ケヴィンについて語る必要がある」ことを常に強いられることになる。二人のあいだにあるのが愛情だとはとても言えないが、夫婦などには見られない関係の絶対性であることは確かで、それだけ全ての時系列が収まる最後の瞬間になんとも言えない状態に置かれる。

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