批判というほどのことではないが、澁澤龍彦は森鷗外に対して、素朴な疑問を発している。
『ヰタ・セクスアリス』はラテン語で「性的生活」を意味し、明らかに鷗外本人と思われる「金井湛君」の六歳から二十一でドイツに渡航するまでの性的出来事を描いている。
十三歳になった彼は東京英語学校に入り、寄宿舎住まいとなる(実際の鷗外は東京医学校予科である)。そこで同朋に、「悪い事」、つまりオナニーを教えられる。
僕はそれを試みた。併し人に聞いたやうに愉快でない。そして跡で非道く頭痛がする。強ひて彼の可笑しな画なんぞを想像して、反復して見た。今度は頭痛ばかりではなくて、動悸がする。僕はそれからはめつたにそんな事をしたことはない。詰まり僕は内から促されてしたのではなくて、入智慧でしたのだ、付焼刃でしたのだから、だめであつたと見える。
まず、ほとんどの男性の場合、知識より実践が先行しているはずだと述べたうえで、澁澤龍彦はこう述べている。
そもそも春画のシーンを空想して反復することが可能なほど、意識的に勃起や射精を促すことのできる少年が、どうしてそこに快感の源泉を発見しないでいられるだろうか。色情のイメージと肉体の反応とが、『ヰタ・セクスアリス』の主人公の場合、まさにぴったり結びついているのに、快感だけがそこから抜け落ちるということが、いったい、あり得るのだろうか。疑問はそればかりではない。「僕は内から促されてしたのではなくて、入智慧でしたのだ」と鷗外は書いて、おのれの性の目ざめの遅かったことを強調しているかのごとくだが、それなら何歳になって、彼は初めて「内から促すもの」を感じたのか。そして、その時のことをどうして書かないのか。感じなかったことばかり書いて、どうして感じたことを書かないのか。(「ウィタ・セクスアリス」 『思考の紋章学』(1977年)所収)
確かに、その後、金井君は待合で芸者と性的交渉をもつのだが、性病に感染する不安を書いてはいるが、快楽そのものに言及されることはない。この小説全体を通じて快楽に触れられることはないのである。ところが、不思議なことは、澁澤龍彦も指摘しているように、「道徳上の罪悪感」もまた欠けており、「彼の抑圧のメカニズムは、あくまで対世間的に働くのであって、道徳の領域には少しも力を及ぼさない」ようなのである。
対世間にむけてといって正確かどうかはわからないが、鷗外の小説にはexcuseが多い。『ヰタ・セクスアリス』にしても、冒頭、どうしてこうした小説を書く気になったかが、同時代の自然主義が席巻していた文壇を皮肉混じりに評しながら述べられている。
金井君は小説を沢山読むが、それを「芸術品」としてみているわけではない。芸術を非常に高いものとしているから、現在の小説はほとんどその要求を満たしていない。ただ彼にとっては、作者がどんな心理的状態で書いているかだけが関心を引く。そして作者が悲しさや悲壮さを出そうとするところで滑稽さを感じ、滑稽さを出そうとするところで悲しさを感じる。
その後唯一名を出されているのが夏目漱石で、「金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。」技癢とは、自分にそれなりの腕前があるので、他人がすることを見てその難しさを感じるということである。
しかし、その頃流行していた自然主義の小説に関しては、なんについても性的描写が伴い、それが人生をよく写していると評されるのを読んで、人生とは果たしてそんなものだろうか、それなら自分は人間の仲間はずれになってしまうと思いながらも、性に関する書物は数々あれど、性欲が人の生涯にどんな風に発現していき、その生活にどれほど関係しているかについてあらわしているものは少ないとして、ようやく本文にあたるものが続くのである。それが性をもって生の深層を抉ると称する自然主義に対する鷗外流の対応であったことは確かで、快楽を描くことを忌避したのは、対世間的な抑圧もあろうが、流行に対する片意地な対抗心もあったのかもしれない。
発表の時期はわずかに早いが、同年に書かれた短編『追儺』もある種のexcuseからはじまっている。もっともこれは鷗外の特異な執筆歴から来ている。鷗外は明治二十二年、『舞姫』で颯爽と登場し、続けて『うたかたの記』『文づかひ』を発表した後、途中明治三十年に鷗外においては唯一といっていい、江戸文学的、戯作的な『そめちがへ』を単発的に発表しているが、そしてまた厖大な翻訳と評論を残し、更に、明治二十七年からその次の年にかけて日清戦争に従軍、明治三十二年に九州の小倉に赴任、明治三十五年に東京に帰り再婚するものの、明治三十七年から三十九年にかけて日露戦争に再び従軍することになり、続けて子供や弟を喪う不幸があって、結局再び小説が発表されたのは明治四十二年のことだった。そしてそのときには、簡潔でセンテンスは短いが的確な鷗外のスタイルは確立されていた。
つまりほぼ二十年のあいだ鷗外は小説を書かず、しかも本格的に小説家として再出発するときには、もはや五十に近い年齢になっていた。死亡したのが大正十一年、満六十歳になるときのことだから、晩年の史伝を含めた小説のほとんどは十数年のあいだに書かれたことになる。『追儺』はこの豊饒な十数年の冒頭に、『半日』の後に発表された。『半日』で久しぶりに小説を書いて、よほど周囲が沸き立ったのだろう。『追儺』は「悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持って往かずには置かない」という西洋のことわざを引用することから始まっている。あいつはなにも書かないやつだと思われているうちは、それが善意からによるのだろうと、悪意によるのだろうと、無事平穏である。ところがなにかのはずみに内容空疎なものだろうと、書いてしまう。するとさあやつは書くそうだということになり、至るところから書けと迫られることになる。
しかしなにを書いたらいいのだろうか。一方で、叙情詩と戯曲でないものはすべて小説のなかに数えられている。しかし、他方において、こういうものをこういう風に書くべきだという教えはめまぐるしく変わっており、直近では自然主義が優勢を占めている。こうしてエッセイ風に始まった『追儺』には小説概念を根本的に見直させるような言葉が見いだされることになる。
凡て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那々々に変じて已まない。併し変じないといふ側から見れば、万古不易である。此頃囚はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。
「夜の思想」というのは、バルザックなどは夜をもっとも生産的な時間だとしており、珈琲をがぶがぶ飲みながら、束ねた白紙を前に口述していったらしいが、バルザックには自分のように午前八時から午後四時までの役所の仕事はなかった。自分は役所から帰って少しの睡眠を取って午後二時まで書く。疲れの残った状態で、昼の間解決しかねた問題が夜には解決したつもりなるが、朝になって見直してみると、解決にもなっていないということがある。つまり、当てにならぬ思想という意味で、上のような断案を下したというのである。
そしてこの文章にいったん「新喜楽」という名をつけた。読者の注意を引くにはスキャンダル香りがあった方がいいと思ってのことである。しかし、雑誌の体裁もあろうからと「追儺」と改める。「新喜楽」は伊藤博文がよく利用していたことで知られる料亭である。「新喜楽」へはM.F.君の招待である。いまの料亭がそうであるように、相伴にあずからなければ陸軍軍医総監という軍医としては最高の地位にあった鷗外といえども、足を踏み入れる機会のない場所だった。役目上、宴会はたくさんある。しかし、行くところは決まっており、「偕行社、富士見軒、八百勘、湖月、帝国ホテル、精養軒」などである。偕行社は陸軍のクラブといったところで、帝国ホテル、精養軒はいまでも残っている。
四時に役所が終わると、電車に乗って本願寺前で降りる。新喜楽を見つけるが、約束の時間まではまだ一時間半もある。早く着いた旨を断り、二階へ案内される。出された茶と菓子をかたづけてしまうともうすることがない。本を読む気にもならないので、葉巻を吸っている。外を見、戸を閉めて座敷を見る。
此時僕のすわつてゐる処とdiagonalになつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはひつて来るものがある。小さい萎びたお婆さんの、白髪を一本並べにして祖母子に結つたのである。しかもそれが赤いちゃん〳〵こを著てゐる。左の手に枡をわき挟んで、ずん〳〵座敷の真中まで出る。すわらずに右の手の指先を一寸畳に衝いて、僕に挨拶をする。僕はあつけに取られて見てゐる。
「福は内、鬼は外。」
お婆さんは豆を蒔きはじめた。北がはの襖を開けて、女中が二三人ばら〳〵と出て、翻れた豆を拾ふ。
お婆さんの態度は極めて活々としてゐて気味が好い。僕は問はずして新喜楽のお上なることを暁つた。
おばこむすびは、『大言海』によれば、「髪ヲ束ネ、其末ヲ頂後ニ蟠ルヤウニ結ヒ、小サキ笄ヲ横ニ亙シテ余髪ニテ其中央ヲ巻キ止ム。下輩ノ老婆、又ハ、怠リガチナル女ノ結フモノナリ。」とあり、ざっかけないが、下品になることのないお婆さんの姿を的確に捉えている。
要するに、これだけの話で、その後待ち合わせをした人物が現れ、批評家に衒学の悪口を言う機会を与えるために少し書き加えるとして、「追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬に似寄つた風俗のあつた事である。羅馬人は死霊をlemurと云つて、それを追ひ退ける祭を、五月頃真夜なかにした。その式に黒豆を背後へ投げる事があつた。我国の豆打も初は背後へ打つたのだが、後に前へ打つことになつたさうだ。」と終わる。
文学論で始まり、後にもっと陰湿な姿で育つことになる私小説を思わせる身辺雑記的なものを含みながら、広く得た知識を抄するという江戸時代からの伝統である随筆的なもので終わり、小説とは「何をどんな風に書いても好いものだ」という断案を実現している。しかし、なによりもこの短編を生彩あるものとしているのは、思索や友人をなにすることもなく待つという空白の時間を突き破って登場し、指先をちょっと畳について挨拶するお上の所作であり、ただこれだけのことで『追儺』は小説であることを確かなものとしている。そしてまた読者もそのことにあっけにとられる。
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