2015年1月31日土曜日

アンドリュー・V・マクラグレン『ワイルド・ギース』のチラシ

1978年のイギリス映画。

傭兵たちの話。
好きだった。特にリチャード・ハリスがお気に入りで、イーストウッドの『許されざる者』で再会したときは嬉しかった。



2015年1月30日金曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』27

      論理に関する保留

 感情と論理との区別、直感と理性との区別は、その他との関わりでどれだけ役に立つとしても、ここでは考える必要はない。鳥の一団にとって、そのうちの一羽が飛び立つときに続けて飛び立つことは本能であり――同様にまったく論理的な振る舞いである。一般的に言って、自分の身を守る助けとなるやり方で出来事に反応しているのであり――最初に飛び立った鳥が間違っていたり、ひねくれていたにしろ、それ以上に論理的な振る舞いは考えられない。

 より微妙な性格を識別することを学習すれば、より正確な反応ができるかもしれない。例えば、若い鳥はより飛び立ちやすいことを知り――神経質な若鳥の行動はその近くにいる鳥によって斟酌され、そうした無反応に集団が応じることもあるかもしれない。こうした場合、しるしの読み取りはより正確にはなっているが、より論理的になっているとは言えないだろう。我々の考え方からすると、論理とは、言語化による再定位或は確認を意味していると思われる。即ちこうである。我々はある問題を特殊な形で言明し、この特殊な言明のなかで問題を探るときに論理的(ロゴス、言葉)である。鳥の振る舞いは、彼らが実際に再定位のなんらかの提案をあらわし、それを実行できたときに論理的となろう。そして、薄暗闇のなかでぼんやりと外套掛けを見て、それを泥棒だと解釈して逃げだしたとしても、なんら非合理的なところなどない。

 我々の言葉の意味においてはっきり非合理的な過程だと言えそうなのは、次のような家庭での出来事である。いたずら好きの娘婿がパイプを拳銃のように握り、曾祖母に向けて「手を挙げろ」と言う。いたずらは思ったよりもうまくいった。老婦人は大いに驚き、銃を下ろすように叫んだ。いたずら者は銃ではなく、ただのパイプであったことを示す――彼女は厳格にこう答える、「ああ、私にはわかっていたよ、でも人はそうやって撃たれるもんだよ」と。

 彼女の恐れは論理的であり――その憤りも論理的だが、その言語化については、どうすれば適切と言えるのか、私には定位の形を想像できない。彼女は、たとえ弾が込められていないと思われても、武器を人に向けるべきではないことの理由を述べている。彼女の考えによれば、そうした武器は結局のところ弾が入っていることをしばしば証明するのである。それ故、武器を使ったいたずらは人の命を代償とすることもある。それ故、彼女の恐れと憤りは正当化される。しかし、人はパイプで撃つことはない。彼女の反応はもともと彼女によって特徴づけられた状況に対するものであり――義理の息子によって別に特徴づけられた状況に対するものではない。それは、彼女が息子の言語化を無視した限りにおいて非合理的である。もし彼女が、銃は突然パイプに変わりうるものであり、いまは明らかにパイプであるが、自分に向けられていたときは銃であったと信じているなら、非合理的とは言えないだろう。

 非合理的だとして最も責められるのはこの二番目の種類に関するもので、そこでは前提の不一致が隠されており、互いを非合理的だと責める対立者同士は、実際には学生めいた三段論法的な律儀さで前提から結論に向けて進んでいる。こうした事例は、特に、西洋の調査者が未開部族の行動に論理的欠如を発見する場合に見受けられる。実際には、未開人は部族の合理化によって確立された因果的結びつきをもとに、極めて論理的に行動している。我々は我々の検証の技術によって、合理的な枠組みを問いただす根拠を提示することはできる――しかし、自分が正しいと感じる根拠に基づいて行動している人間を非合理的とは呼べない。

 それでは、老嬢は、恐れに心を奪われており、それに従えばまさしく出来事の性格は彼女が解釈したとおりだとしてみよう。娘婿が銃ではなくパイプだと示したのは、彼女の反応に根拠がないことを示すことで、状況を再定位する試みだとしよう。このことについて、彼は本質的には成功しておらず、というのも、彼は彼女が恐れるべきではない理由を彼の観点から提示したが、彼女の恐れが憤りの十分な根拠であるという事実に対して、憤るべきではなかった理由を提示することはできなかったからである。かくして、彼女の言語化は、怖がらせたことに対する憤りを正当化するという意味においては非論理的であり、本来的な恐れだけが極めて適切に言葉にあらわされている。

 間違った象徴化のもと、彼女が実際になにを言っているかといえば、「私はそれが銃だと思い、銃を向けられたから憤った」ということである。しかし、無害だとわかったいたずらに対して憤りを示すことに居心地の悪さを感じた優しい老嬢は、叱りつけることで示そうとはしたものの、その言語化から憤りに関する部分を完全に除外した。それ故、すべてが終ったあとにも、銃を向けたという実際には行なわれなかった不法行為を理由に責めようとすることで、完全に間違った発言をする。

 かくして、言語行為が語り手の定位のなかにおいてさえ不適切で、非合理的だと認められるとき、定位一般の論議に言葉が大きな助けとなりうるかどうか我々は疑問を感じる。定位のシステムというのは、正確さの多少はあるにしても、ある出来事を選び出し、それが有益か、中立的か、危険か判断することにある――そして、危険がわかっていて破滅的な行動を取る男は、ラベルに薬とある瓶に入った毒薬を飲んで死んだ男に対してより非論理的な振る舞いをしたわけではない。

 この意味において、新たなやり方で出来事の性格づけをしようとすることは、宗教、精神療法、科学のどの名で行なわれるにしても、人を改宗させようとすることである。それは、我々の定義によれば、既に確立した結合を攻撃する限りにおいて不敬虔である。それは、合理化によって我々の反応の性質を変えようと試みる。

 例えば、ユダヤ教とキリスト教の合理化のなかでは、それより以前の異教的な聖なる売春は罪として再定位化される。食事療法の理論でも、同じように新たな禁止事項や規定があって、無関係、有益、危険についての我々の考え方が再定位化される。マルクス主義では、新たな意味が、広範囲にわたる複雑な生産、配分、道徳のネットワークのなかから特殊な注意、特殊な要因を引きだす助けとなっている。こうした試みのすべては(十九世紀は、我々を変える範囲については様々であるが、無数の新たな定位を生みだした)、我々の敬虔な定位に狙いを定めており、我々が疑問に付することなく放置しておいた最後の究極的な仮定を狩り出すのである。

2015年1月29日木曜日

ブラッドリー『論理学』113

 §8.「欠如」と「対立」との区別(シグヴァルト128頁以下)も、我々が述べたことの本質を変えはしない。欠如の判断においては、「赤」という述語は、主語となるものには赤がないことによって否定される。主語はまったく色のない暗黒かもしれない。しかし、「赤」が、主語が「緑」であるために否定されたのだとすると、排除し合う対立する性質が現前することになり、判断は現にある対立に基づいていることになる。この区別は、後に別の文脈で見ることになるが、最も本質的なものである(第六章、第三巻II.第三章§20参照)。しかし、いまの我々の問題には関係ない。どちらの場合にも、主語はある性質をもつものとされている。つけ加えられることでも削減されることでも個別の性格は破壊される。もしある物体が色がないために赤ではないなら、色をつけ加えることは我々がいま見ている物体を破壊することになろう。公平に言って、この述語が受け入れられれば、主語はもはやあるがままの主語ではなくなるだろう。もしそうなら、結局どちらの否定も矛盾する性質や性格から始まっていることとなろう。

2015年1月28日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻28

けしの一重に名をこぼす禅 杜國

 前人が解したところでは、一休禅師がまだ成道していないとき、艶書に罌粟の花一輪を添えて、「本来の面目坊が立姿一目見しより恋となりけり」と詠じた面影だという。一休のこと、世に多く逸話が伝えられているが、みな浅はかな作りごとで、信じるにたるものが少ない。その作したものは詩集『狂雲集』二巻、『骸骨草紙』、『仏鬼軍』などがある。後人が選した『可笑記』、『狂歌咄』のたぐいは、基づくところがないとは言わないが、単に小説である。「一目見しより」の歌、これらの書に載っているだけで、いま自分の書棚にはないので確証はない。

 一休は高須の里の遊女、地獄となじみであったと伝えられている。その真偽は知るよしもないが、一休は寒中の枯れ木のような堅物ではなく、「今夜美人若約我、枯楊春老更正稊」の詩があり、その他、「美人の陰に水仙香の香有り」など、種々放縦の文字を『狂雲集』にとどめた人であって、かつまた、摂津の桜塚の岐翁紹偵はまさしく一休の子であるが、その紹偵が一休の像に付けた賛にも、「尺八声ゝ吹又吹、婬坊酒肆一生棲、瀟洒途轍少人𨂻、眼見東南竟北西」とあり、実に常識や凡庸さのなかった人物なので、虚実取りあわせ、「あだ人と樽をひつぎ」の前句に、「けしの一重に名をこぼす禅」と付けたのだろう。

 こぼすは流すといっているようなものである。『和漢文操』、『雲鈴行状記』などを引いて、死を予知して仏花をいけて大いに祝い、罌粟の花の散るように成仏しようと杯膳のあいだに座を占めた生死を達観した居士だ、などと『婆心録』の解するのは、必ずしも当を得ていないように思われる。前句が豪放狂逸の態なので、一休のように不羈の禅僧の面影を借りて点出したと解するのが穏やかである。

2015年1月27日火曜日

フレッド・ジンネマン『ジュリア』のチラシ

1977年のアメリカ映画。

題名はよく記憶に残っているが、ヒューマン・ドラマに関心がないので、見ていないはずだ。



2015年1月26日月曜日

ケネス・バーク『恒久性と変化』26

      やむを得ない労働と象徴的労働

 単調な骨折り仕事は純然たるやむを得ない労働であり、象徴的労働は個人の最も深いところにあるパターンに従ったものだと認めるれば、やむを得ない労働と象徴的な労働とを区別できる。象徴的労働はより敬虔である。例えば、どこかに行かねばならず、目的地へ行くあいだにあるために山に登るのであれば、それは「やむを得ない労働」である。同じ行動でも、山が登り手に対してなんらかの深い意味合いをもっており、登るという行為そのものがある種の達成なら、それは象徴的であろう。登山家の経験を読んだことのある者なら、その区別がわかるだろうが、登山家の場合、登山にありがちの危険は単に堪えられるものではなく、求められるものである。非凡な達成というのは、芸術的、科学的、政治的、商業的のどんな場合であっても、恐らくはやむを得ない側面と象徴的な側面とが一人の人間において結びつくことで生まれるのだろう。

 例えば、ロックフェラーは単に金儲けをしただけではなかった。彼の努力にはなんらかの形でピューリタンの道徳規範が含まれており、経済的帝国を建設しようとする彼の絶え間のない労力は功利的な必要性を遙かに超えでている。彼は単なる仕事をしていたのではない――召命に応じていたのである。同様に、レーニンのような職業的革命家の場合、変わることのない仕事への献身は、プロレタリアート独裁が彼にとって単なる手段ではなく、なんらかの形で彼の最も根本的な正当化のパターンや自尊心に深く関わっていたことを示しているだろう。それが子供時代の経験のパターンに結びついていることもあり得ることで、哀れなゴーゴリは、早い時期に、彼の風刺小説が大きな成功を収め、父親に対する忠誠を裏切ってしまったと感じてから自分の心を見失ってしまった。レーニンの場合、手がかりは恐らく兄との関係にあって、兄が殺されたあとレーニンはその重要な意見を取り入れたのである。

 要約すると、どんな種類のものであっても、大いに献身が認められるところには、敬虔の領域がある。ジャーナリストの場合のように、今日多くの人間が自分の仕事に嫌悪感を表明しているが、それもある種の裏返しにされた敬虔さであろう――一般紙が純粋に実用的なスタイルで書かれているのに対し、しばしば赤新聞が労働者向けの強い個性的なスタイルを示しているのも偶然ではないと思われる。

 赤新聞の作者たちがその努力のなかに道徳的要素を蔵しているのは明らかである――というのも心底において彼らは自己を軽蔑しており、こうした自己嫌悪は基本的に道徳的だからである。それ故、それに見合った不浄な献げものをする祭壇をもっているのである。下劣な社説が実際には響きをもち、大声で朗読でき、リズムと精神をもつ一方、一般紙の毎日の義務的な報告が電話帳のように素っ気ないものだと気づかない者がいようか。一般紙の実用的なスタイルは基本的に夢中になることを欠いている――作者は単なる観察者である。しかし、根本において軽蔑する新聞の仕事をするなら、書く度に常に道徳的問題を扱うことになり、その記事は雄弁の退化した形でしかないにしても、道徳的刺激のしるしを見せることになる。

 同様に、心理学者は人間の仕事に潜むシンボリズムのパターンをあらわにする者として詩人の仕事に取り組むが、機械的な発明にも同じようなことがあらわれていると想像できよう。心の分裂によって苦しんでいたハート・クレーンにとって、ブルックリン橋は統一のシンボルだった――どうして心の底から強く橋をつくりたいと願っている技術者にとって、橋が同じような非功利的意味合いをもたないことがあろうか。

2015年1月25日日曜日

ブラッドリー『論理学』112

 §7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればその性質が変わってしまう。Bが破壊してしまうこの性質によってAは自らを持しているのであり、呈示を退けるのである。別の言葉で言えば、性質xとBとは矛盾する。そして、Aにこの矛盾をもたらす性質があることをあらかじめ認めていなければ、Bを否定することはできない。

 しかし、否定判断においては、xは明らかにされていない。AのなにがBとの両立を不可能にするのか我々は言わない。尋ねられても、しばしばその隠れた障害を指摘し、見分けることができないこともある。ある場合には、どれだけ努力してもそれが不可能なこともある。Bが受け入れられれば、Aはその性格を失うが、それ以上のことはわからないのである。否定の土壌は言明されていないだけではなく、知られていない。