2014年8月31日日曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻18

禿いくらの春ぞかはゆき 野水

 禿はかぶろともかむろともいい、本来は髪がない意味で、髪振(振り乱した髪)という意味は間違っているだろう。髪を束ねないのを禿というのは、あるべきものがなく、冠もかぶっていないことからいうのだろう。

 『源平盛衰記』巻一に、「入道殿のはからいで、十四五、もしくは十六七の童の髪を首のまわりで切って、三百人召し抱えた」とある。またそのあとに、「入道殿の禿といえば京中でも較べるもののない高い身分のものだった」とある。このことから、髪を首のまわりまでにして切り、束ね結うことがないのを禿といい、またそうしたかむろ髪をしたものを禿といったことは明らかである。女性でも天和貞享のころはかむろ髪にしたものが多いことは、浮世絵などに見える。

 この句の禿は十三四の女の子である。「いくらの春ぞ」は幾年の春を重ねたのだろうということである。この禿は嫁入る人に付き添っていく童女だとも、輿入れする幼い姫が禿なのだとも、嫁入りする人を見にでてきた禿を嫁がほめたのだとも、諸説ある。かぶろ髪の姫君の輿入れするということはあまりに稀なので、前句の「いかめしく」というのにつけて、切り禿の美しい女童を新しくきた人物が召し連れていたのを見ていたものが、新しくきたひとの顔はよく見えないが禿の美しいのを見て、「いくらの春ぞかはゆき」というおもむきを述べたものだろう。幼い姫の輿入れというのは、「初花」という言葉に幻惑された解釈だろう。

2014年8月30日土曜日

ブラッドリー『論理学』66

 §41.人間の生は一つの場面であらわすことはできず、この例は我々が考えたよりも射程が長い。生は単に系列をなす出来事の継起であるのではなく、(我々が思っているところでは)なんらかの同一のもの、あらゆる出来事に異なった姿でではなく、真の同一性をもってあらわれるなにかを含んでいる。我々は単称判断の三番目の主要なクラスにたどり着いたのであり、出来事ではない主語のことを語っている。この種の判断は、そこで扱われる個的なものがある特定の時間と関わっているのか、あるいはどんな時間とも関わっていないのかによって二つに分けられる。

 III.(i)人間や国家の歴史においては、我々は実在を指し示す内容をもっているが、その実在は所与の知覚への関係によって決定される系列のある部分にあらわれるものである。(ii)二つめの分類には、普遍や神や、魂を永遠のものとするなら魂に関する判断を入れなければならない。ここでは、我々の観念は知覚において見いだす実在と同一であるが、それは現象の系列のいかなる部分にも結びつかない。もちろん、そうした判断は錯覚だと言われるかもしれない。しかし、既に見たように、もし正しいとしても、この結論は我々にはする場所のない形而上学的探求によってのみ確立される事柄なのである。そうした判断は存在する、そして、論理学はそれを認める以外のことはできない。

 この三番目で、最後の単称判断のクラスは他のものとは異なっている。その本質は、究極的な主語は、「これ」にあらわれたり、系列のどの出来事かにあらわれる実在ではないことにある。しかし、この区別はある程度まで不安定である。分析判断が常に総合判断になろうとするように、ここでも、このクラスの最初の判断を総合的判断から明確に分けることは不可能である。一方において、時間的要素の連続性は単に系列的であるような性格を厳密に排除する。出来事に関するあらゆる判断において、我々は知らぬうちに同一性の存在を肯定している。他方において、ある系列における個的な生は、系列を形づくる判断のクラスにごく自然に属しているように思われる。しかしながら、個的なものに関する限り、我々は明らかに出来事の変化を通じて変わらないなんらかの実在を認めているのであるから、原則的に揺れ動くことは認めた上で、この区別を保ち続けるのがいいだろう。個人の人間の例は、我々を分析判断から総合判断へと導いた。また、それは更に先へ進む助けとなる。

2014年8月29日金曜日

襞の奥には底なしの穴――俳句


魂が持ち重りする日ノ出町

切通し林のなかの消尽点

ぐりぐりで国土回復する女体

お守りは樟脳玉を虫除けに

内腿を縁側と見立てる若旦那

罪人が化物屋敷で積み木積み

春うらら煉獄の丘でのダウジング

痛い膝あなたが嚙んだと思い込み

2014年8月28日木曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻17

初花の世とや嫁のいかめしく 杜國

 「嫁」は「よめり」と読むべきであり、動詞から派生した名詞と読まなければここではよくない。「よめ」と読んで、字足らずなので脱字があるとして、「初花の世とてや嫁」とするひとがあるのは間違っている。この句もまた句づくりがはなはだ巧みで、場景の転変と収め方が非常に際だっている。「とや」という一語が、霊妙である。

 一句は、ああ、初花の世になったことだ、あの嫁入りの行列の美しく立派なことよ、というだけのことだが、言外には、地蔵をつくるのは多くは幼くして死んだ幼児のためにすることなので、まだ立たないうちに落ちる花もあれば、まさに開いて照り輝く花もあるという感じをあらわす意味もある。しかし、句の上では、こつこつと地蔵をきる町の、もともと賑わっているわけでもない通りを、飾り立てた花嫁に付き添いの女たち、仲人、親戚、供の男など、なるたけいかめしく装っていくをのをあらわしただけである。

 だが、もしこの句が「初花の世とて嫁のいかめしく」であれば、状況や起きていることは同じだが、余韻がなく言葉がつきて、意もまたつきている。「初花の世とや嫁のいかめしく」とあることで、作者が句中に顔をださず、別に行き交う路上のひとがあって、この嫁入りを見て、前句の地蔵をきる音を聞き、いうにいわれぬ感じを抱けるのを見る心地がする。

2014年8月27日水曜日

ブラッドリー『論理学』65

 §40.多くの難点に出会い、そのうちのいくつかは解決できたと私は信じているが、単称判断の第二の区分についての考察を終わることになる。第三の、時間における出来事の数に限定されない判断に移らねばならない(§7)。しかし、先に進む前に、しばらく時間を割き、いかにも危険な実験ではあるが、ある総合判断を取り上げてみることにしよう。ホガースの遊女や放蕩者が練り歩く一続きの絵を思い浮かべてみよう。しかしそれ以外にもつけ加えることがある。系列のなかの一つの絵は実在で、実際の部屋に現実の人間がおり、この実在の部屋の壁にはそれより前と後の絵が掛かっていなければならない。部屋にいる人間と絵のなかにいる人間とは同じ性質をもっているので、額縁は無視して、全系列は彼の過去と未来として配列される。我々はこのようにして目に見ることのできる部屋、現前する場面を超越して時間の系列として拡がっていく人間の現実の生を見てとる。

 しかし、我々の見る実在の部屋にいる男は身体があり、骨があり、息も血もあるが、その過去と未来は、実在ということで感覚される事実を意味するなら、ガラスと木と絵の具と画布以外の何ものでもない。それは我々皆の未来や過去と同じである。記憶や予期による出来事は我々の心にある事実でるが、それがあらわす実在は、絵の具と画布による心臓以上のものではない。疑いなくそれは実在をあらわし、我々はもしそれが事実ではあり得なくとも、少なくとも真ではある、と密かに信じている。実際、もし真実が実在をあらわす自然で不可避的な方法を意味するなら、それは正しい。しかし、真実ということで、もし我々がそれ以上のことを理解するとするなら、実在が我々の観念的な構築物にあらわれる通りのものであり、現実にそこには過去、現在、未来の事実が存在すると言うなら、我々が調べてきたように、真実は虚偽にへと変化するのではないかと私は恐れる。知覚による検証でも間違っているだろうし、別の基準で試したとしても、より虚偽であることがはっきりするだけだろう。

2014年8月26日火曜日

プラトンからポオへ――ノート20

 衣食住を満足させることだけで国家は形成されない。衣服、食物、住居を作りだすにはそれぞれ独自の道具がいり、もちろん、道具を製作するにも道具がいるので、必要とされる職種は、生存に不可欠なものの数十倍に増加する。

 さらには、絶海の孤島でない限り、他の国との交渉が存在することを考えねばならない。友好的な外国も、敵対的な外国もあることを思えば、外交の役割を果す者や兵士も必要となろう。そしてなによりも、必要最低限な愛国心と国家への忠誠が要求される。それゆえ、国家においてもっとも重要なもののひとつに教育があげられることになる。こうした議論の過程で、プラトンにおいて有名な、詩人や劇作家に対する非難があらわれる。欲望の限りをつくす神々を描きだす叙述は、神々に対する崇敬と「健全な」道徳とを同時に損うことになろう。

 教育科目としてあげられるのは、主として詩と音楽、そして身体的な教育である。身体的教育についてド・クインシーは面白い指摘をしている。オリンピックの発祥の地として古代ギリシャは有名だが、運動選手としての教育と、兵士として役だつ教育とは異なるということだ。こうした無駄話は私がド・クインシーにおいて最も好むところでもある。

 「剣闘士の学校は、よく知られ変わらないのは、公的な祭りや試合の前に体力を最大限に準備するためのものだということである。現代の、そして古代の訓練体系では、この準備段階の教練はきちんと計算できるものであったことが知られている。『ファン』が我々のなかにもいる拳闘家は、厳しい罰則規定のある法的な契約関係に入り、試合の時日が決まると、その六週間前からトレーニングに入る。試合までの日、食事、練習、睡眠、すべてを規則的に管理し、筋肉と体調を最上の状態に整える。さて、確かに一般的に見れば、プラトンの兵士の目的も同じであるが、重要な相違点がある。つまり、彼らの戦いは一日や二日ですむものではなく何日もかかるし、決められた日どころか、いつ始まりいつ終わるのか、どれだけ続くかもわからない。この相違一つですべてが変わる。古代と現代のトレーニングは二つの顕著な事実について一致している。一、異常な訓練によってついた体力は長続きせず、一様に貧弱といえる状態にまで落ち込んでしまう。シジフォスの岩のように、抵抗するものを苦痛に満ちた異常な努力で頂上にまで押し上げると、それが転がり落ちるときの大音声の激しさもすごいものになる。激しい状態は突然の反動を生まざるを得ない。二、異常な緊張からくる痙攣は危険を伴わずにいないことがわかっている。卒中や動脈瘤破裂といった突然の死は、自然の器官を危険なまでに酷使することから起きがちなのである。これもまたギリシャの経験したことだった。力をつけ、安全を確保するには時間をかけなければならない。そんなわけで、プラトンは身体的訓練の大きな法則として、食事、練習、節制、力をつけるための体操などを運動選手の学校から兵士のために借りることをやめたのである。」

 プラトンのほうは、これ以降理想的な国家についての対話が続くが、さしたる興味はないので省略する。要するに、正義とは知恵を愛し求めることであり、哲学者こそがそうした正義を満たすことのできる人物である。そして、哲学とは次のような行為である。

心底から学ぶことを好む者は、真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているものであって、一般にある思われている雑多な個々の事物の上にとどまって、ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は、真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分――真実在と同族関係にある部分――によって、〈まさに何々であるところのもの〉と呼ばれるべき、それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは、ひたすらに進み、勢いを鈍らせず、恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって、真の実在に接し、交わり、知性と真実とを生んだうえで、知識を得て、まことの生活を生き、はぐくまれて行く。そのようにしてはじめて、彼の産みの苦しみはやみ、それまではやむことはないのだ

 真実在とは生成消滅しないようなもの、原型、イデアであり、プラトン哲学の根幹をなすものである。しかし、翻って考えるなら、いらだたしく思えたソクラテス流の対話術、曖昧でぬらりくらりとした答弁のあり方こそ生成消滅の最たるものではないだろうか。

 「あなたがいま言われるようなことを耳にするたびにいつも、聞く者たちのほうは何となくこういう感じを受けるのです。つまり、こう考えるのです――自分たちは問答をとりかわすことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しずつわきへ逸らされて行って、議論の終りになると、その〈少しずつ〉が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを言っているのに気づかされる。そして、ちょうど碁のあまり上手くない者が碁の名人の手にかかると、最後には閉じこめられて、動きがとれなくなるのと同じように、自分たちもまた、碁は碁でもちょっと違った、石のかわりに言葉を使うこの碁によって、最後には閉じこめられて、口を封じられてしまう。しかし、だからといって、真実そのものはけっしてそのとおりのものではないのだ、と。」

 このように対話者であるアデイマントスに言わせているプラトンがそうしたことに無自覚だったわけがない。プラトンが描いたソクラテスと実際のソクラテスの応対のあり方や思想にどれほどの懸隔があるか、現在の研究でどこまで認められているのか私にはわからない。たしかニーチェはどこかで、ソクラテスの殺害者としてプラトンを批判していた。しかし、体系的な思想などまったく目指しておらず、それについてはこんな話があってね、とそれこそド・クインシーのように逸脱に逸脱を重ねるソクラテスの姿も想像できなくはない。


 ド・クインシーが寄稿していた雑誌に1817年に創刊されたブラックウッドがある。『阿片常用者の告白』も同誌に掲載されたものだ。ところで、ポウに「ブラックウッド風の記事を書く作法」という短篇がある。この短篇のなかで、『阿片常用者の告白』は「すばらしい、じつにすばらしい!――荘厳な想像力――深遠な哲学――鋭い省察――火のような激情に満ちみちている上に、断固として理解不可能なものでたっぷりわさびをきかしてあります。一片のフラマリともいうべきもので、読者はさも心よげに舌つづみをうったもんですて」(大橋健三郎訳)と紹介されている。フラマリとは、訳者の注によると、牛乳・卵・小麦粉などでつくった甘い食品だが、「たわごと」の意味ももっているという。

 内容は、「人類を、教化する、ための、フィラデルフィア、公認、交流、絶対、茶道、青年男女、純、文芸、世界、実験、書誌学、協会」の客員書記というとんでもない長い肩書きをもつサイキー・ジノービアという女性が、雑誌が刊行されているエディンバラに赴き、創刊者のブラックウッドに記事の書き方を教わる。

 ブラックウッド誌でもっともすぐれているのは、「怪奇もの」あるいは「激情もの」とも呼ばれている記事で、怪奇や激情はポオの小説の大きなテーマを成しているから、この短篇は、詩「大鴉」ができあがるまでを詳細に解きあかした「構成の原理」の散文版とも言えるかもしれない。もっともパロディ的、ナンセンス小説的体裁をとっているが。

 とにかく、ブラックウッド氏の言うには、まず感覚を書きとめること、しかも誰も出くわしたことがない苦境に自ら落ちこんで、そこでの感覚を書くことが肝要である。さっそくジノービアは首をつろうとするが、けっこうですが、月並みですな、とたしなめられる。主題はそれでいいとして、次に文体の問題がある。文体には簡潔調、昂揚、散漫、間投詞調、形而学調、超絶主義調、それらすべてをこき混ぜた混成調がある。そのほかに、博識らしく見せるために、気のきいた事実や表現があり、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語など断片的でいいから文章にはめこむことが推奨される。

 こうした教えを受けたジノービアが混成調で書いたのが、「ある苦境」というポウのもうひとつの短篇である。黒人の召使いと愛玩犬のダイアナとともにエディンバラを歩いていると、ゴシック風の大きな教会に出くわす。ジノービアはその尖塔に登り、エディンバラの全容を見わたしたいという抑えがたい欲望にとらえられる。塔に登った彼女は、召使いの肩を借りて、床から七フィートほどの高さにある四角な孔から首を突きだして、三十分以上も眼下の神々しい景色を眺めていた。ところで、この四角の孔とは時計盤に開いたものであり、そこから時計の針を調節するためのものだった。うかうかと素晴らしい景色を眺めているうちに、まさしく「時の大鎌」たる長針が首に喰いこみ、引き抜くことができなくなってしまうのである。この圧力によってまず片眼が飛びだし、尖塔の急な斜面を転がり、雨樋のなにかにはまり込んだ。しばらくするともう一方の眼も飛びだして同じような道筋をたどった。やがて最後の皮もちぎれ、首が通りのまんなかに落ちていく。

 ところが、彼女が感じているのは迷惑を及ぼしていた首を厄介払いできたという幸福感なのだ。二つに別れたジノービアはどちらも自分の方こそ本当のジノービアだと思うのだが、なんとも曖昧である。いつものように嗅ぎ煙草を吸おうとしたのだが、鼻のある首がないのに気づき、首の方へ投げてやる。「首はしごく満足げに一ひねり鼻にあてがうと、感謝のしるしに私に向かってほほえんでみせた」というのだが、いったいどうやって首は嗅ぎ煙草を鼻にあてがい、胴体はどうして首のほほえみを知ることができたのだろうか。しかしないはずの手足に痛みや痒みをおぼえる幻肢のように、幻首あるいは幻胴体というものがあって、嗅ぎ煙草の臭いも胴体が見たほほえみもそうした感覚を正確に書きとめたものかもしれない。

 起こりうるはずのない出来事が異様に鮮明な感覚を伴っているポオの描きだす世界は夢に似ている。『マルジナリア』のなかでポオは、善人は死後もなお存在するが、悪人は死ぬことによって絶滅するという面白い世界観を提示している。善悪、つまり死後も存在するか絶滅するかは夢の量によって判断される。夢とは死後の世界を開示するものであり、夢の多寡によって魂のある種の耐久性とでも言えるものが示される。


 だが、より興味深いのは、同書のなかで、「影の影」と名づけられているある種の「幻想」である。この「幻想」は、夢と現のあいだの魂が極度に落ち着いた瞬間にしか訪れることはない。思想は時間の持続がなくてはあり得ぬものであるから、それが思想でないことは明らかである。「かういふ『幻想』は、快い恍惚感に伴はれて来る、そしてその快さは、醒めて居る時、或ひは夢の世界の、どんな快さよりも、遙に、北欧人の天国がその地獄から離れて居る程遙に優れたものである。」(吉田健一訳)

2014年8月25日月曜日

幸田露伴「評釈冬の日」初雪の巻16

こつ/\とのみ地蔵きる町 荷兮

 前句は漁師町近くの旧家などの古びた様子を句にしたが、ここでは石工の仕事場としていて、一転奇警で無理がなく、この句非常に愛すべきものである。きるは刻み削って形をつくりだすことである。石を出す地も多く、房州保田金谷は房州石を、豆洲諸地の伊豆石、根府川の根府川石を出すようなものである。「壁落ちて」に石を扱う家を点出し、しかも一二軒だけでなく石屋があって、終日ただこつこつと槌の音だけがするところを取り上げ、しかも地蔵菩薩をつくると描いたところなどは、才能豊かで技術も整っているといえる。