2013年11月30日土曜日

ラフカディオ・ハーン『本とその傾向』



 東京大学での講義を学生が書き留めたものからできている。

 目次は次の通り。

編集したジョン・アースキンによる序。
I 克服しがたい困難
II 英国の詩における愛について
III 英国詩の理想的女性
IV 英国詩の最も短い形式についてのノート
V 日本を主題にしたいくつかの外国の詩
VI 英国文学における聖書
VII 「ハヴァマール」
VIII 人間を越えたもの
IX 新たな倫理
X 虫についてのいくつかの詩
XI 虫についてのいくつかのフランスの詩
XII 英国文学におけるフィンランド詩の影響についてのノート
XIII 中世の最も美しいロマンス
XIV 「イオニカ」
XV 古代ギリシャの断片

 「ハヴァマール」は『古エッダ』の歌謡。
 「イオニカ」はウィリアム・ジョンソン・コーリーが古代ギリシャ詩を模してつくった珍しい詩集。
 学生を前にした講義でありながら、虫に関する詩や北欧の詩、決して主流とはいえない傍流の詩人たちを紹介している。

 欧米と日本の文学のもっとも大きな相違は、欧米では恋愛がもっとも大きな主題になっているということからこの本ははじまる。『万葉集』以来、日本にも恋愛はいくらでもあると瞬間的に思うものの、確かに、永遠にまで高まる、宗教的なまでに人間性を超越していくような恋愛文学は存在しない。

 そう考えると、ともすれば日本では、フロイトやユングにおける女性から、フィルム・ノワールの「運命の女」にいたるまで、概念的に軽く考えすぎているような気もする。

2013年11月29日金曜日

アイスキュロス「ペルシア人」



 アイスキュロスの残っている劇のなかでももっとも早いもので、紀元前472年に上演された。自身が経験したサラミスの海戦に想を得たもので、神話的な物語ではなく、実際の同時代の歴史的出来事を題材とした珍しいギリシャ悲劇だとされる。

 ペルシア人の長老たちをあらわしていると思われるコロスがギリシャとの戦いのことを述べていると、王の母であるアトッサがあらわれ、不吉な夢を見たことを語る。案の定伝令が到着し、ペルシア軍が大敗したことを報告する。

 アトッサが、夫であり、前の王であったダレイオスの墓に赴くと、ダレイオスの亡霊があらわれ、戦いの敗因はクセルクセスの傲慢にあり、その傲慢さが神の怒りを招いたのだと語る。

 最後の尾羽うち枯らしたクセルクセスが登場するが、本人には敗北の原因はわかっていないようだ。

 いまなら、戦術のつたなさとか情報戦での失敗となるのだろうが、ヒュブリスをもちだすのが上品。

2013年11月28日木曜日

俳句の上手さについて――林桂『俳句・彼方への現在』書評



 『鬣』第15号に掲載された。

 『俳句・彼方への現在』を読んで興味深かったのは、しばしば俳句の上手さについて言及されていることだった。実は、私が俳句を読んでいて一番わかりにくいのがこの上手さということなのである。具体例は忘れてしまったが、久保田万太郎が宗匠の句会で、一語二語のほんの僅かな手直しで、句の様子が見違えるように変貌したのに目を見張る思いをしたことがあって、なるほど、確実に俳句の上手さというのは存在するのだと感じたものだったが、それが、ひょんな折りに、俳句雑誌やテレビで行なわれているような添削が目に留まりでもすると、どこがどう良くなっているのか私には見当もつかないようなことが少なくなく、かつて万太郎の句会に感じた俳句の上手さというものの存在が(具体例を忘れてしまっていることもあって)急に曖昧模糊としたものになっていくのである。

 俳句の上手さには、かつて、三島由紀夫が谷崎潤一郎にオマージュを捧げた際にもちだした、「質(カリテ)の問題」(「大谷崎」)が関係している。質とは「作品における仕上げのよさ」であり、作品の全体から言えば「二次的な問題」とされる。仕上げのよさにばかりこだわることはやや軽んじる意味も含めて職人的と呼ばれることもあろう。だが、もし、質が「文学の根本的な成立条件」であるなら、無駄な部分を取り除き、粗い表面にやすりをかけ、彫琢することに文学の本質的な部分があるなら、主題が第一にあり、仕上げが第二にくるという順位は無効になり、質は単なる技術的な問題ではなく、作家を絶対的な勝利に導く強力な武器となろう。質によって文学であることが保証されるなら、谷崎のように「質によってしか俗世間とつながらな」いことが可能となり、安んじて、女の背中に拡がる刺青であれ、ハンカチについた女の鼻汁であれ、女の足に踏みにじられる男の姿でさえ描くことができる。それをマニエリスムと言うことは簡単だが、マニエリスムと隣り合わせになっていないような上手さなど存在しないのである。更に、つけ加えておけば、俳句に上手さを導入することは、桑原武夫の「第二芸術論」に対する決然たる応答にもなっていると言えよう。というのも、畢竟するところ、「第二芸術論」の主張は、俳句には質の問題が存在しない、と言い変えられるからである。

 かくして、この本は主義主張に則った党派性からは遠く、いわゆる「伝統派」の俳人たちも多く取り上げられている。しかし、当然のことながら、「伝統派」が伝統によって洗練されてきた感受性を規範としているからといって上手さの近くにいるわけではないし、より「前衛的な」俳人が伝統に対してある主張を唱えているところで、上手さから遠ざけられるものでもない。 この間の事情は、例えば、二人の俳人の上手さに対する評価の違いに読み取ることができる。「坪内稔典『百年の家』」では評価は否定的である。

あるいは「上手さ」という点では、これまでの作品集では一番かもしれない。もちろん、それは私に言わせていただければ、氏の「片言性」の追求による成果ではなくて、それだけ氏の俳句の価値観が既存の俳句の価値観に近付いた結果である。坪内氏に限らず俳句の上手さとは、ある意味で、いつもそうした既存の価値観との取引であり、妥協でもあるという側面を持っているのである。

 ここでは、上手さが既存の価値観に奉仕してしまう危険性が指摘されている。上手さは「一般的に上手いと考えられているもの」とは異なる。上手さが個々の言葉の仕上げのよさによって得られるのでなければ、「一般的に上手いと考えられる」凡庸な作品となってあらわれるだろう。上手さは、確かに、ある価値観に基づかざるを得ないが、その価値観の水位は先行する無数の上手さによってたえず高まっており、上手さとはその水面から頭一つ飛び出ることによってしか獲得されない。
 
 「摂津幸彦の『陸陸集』」では次のように書かれている。

・・・摂津の俳句に対する基本的なスタンスは今も同じように見える。つまり、俳句の現在性は、時代に対する違和感によって多かれ少なかれ、アナクロニズム性を持たざるを得ないが、摂津はむしろそれをも積極的に俳句の現在性として取り込んで俳句を書こうとしているように見えるからだ。だから、摂津の俳句の文体は従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なものである。そして、それゆえにこそ摂津作品を一読した後には、無自覚な結果としてのアナクロニズムの作品などからはことごとくその魅力を奪ってしまうような毒を含んでいるのである。

 「従来の俳句的すぎるくらい俳句的な文体に紛うような位置にありながらも、決して紛れることのない不思議なもの」という一節が、俳句における上手さというものをよく言いあらわしている。アナクロニズム性を「積極的に俳句の現在性」に取り込むとは、俳句の個々の言葉をアナクロニズムでくくる「既存の価値観」に照らして見るのではなく、いまここ生まれでたものであるかのように言葉と直面することにある。その結果として、同文のなかで引用されている高柳重信が言うような、「ときおり俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべき」事態が生じうるのであり、もしそうした瞬間に立ち会えたとしたら、上手さというものが俳句の必要にして十分な条件なのだと確信をもって言い切れる時間が僅かなりとももてるかもしれない。

2013年11月27日水曜日

ジミー・サングスター『若妻・恐怖の体験学習』



1972年 イギリス ハマ―・プロ。
脚本:ジミー・サングスター、マイケル・サイソン
撮影:アーサー・グラント
音楽:ジョン・マッケイブ

 結婚したての女性が、義手の男に襲われるが、周囲のものは話を本当にしない。かつて神経症を患ったことがあるためかもしれない。

 そして夫とともにある小学校の近くの家で過ごすことになる。その小学校の校長(ピーター・カッシング)はまさしく義手の男だった。結局、夫と校長の妻の間に共謀があったことがわかるのだが、そして最後に二人とも死んでしまうのだが、この若妻のがなにをしたのか、若妻にされたこととして描かれているのが、本当にあったことなのか、若妻の妄想なのか、もしかしたらすべてが妄想だという余地まで残されている。

 内容的にはポランスキー的なニューロ・スリラーに属するのかと思うが、追い詰められる強迫的な感覚(襲われても性的な含意は感じられない)はさほどなくて、なんの映画かわからない宙づりのままで終わっていく妙な映画である。

2013年11月26日火曜日

欠けたところ--田中小実昌



 『鬣』第15号に掲載された。

マルクス・アントニウスにはなにか欠けたところがある、とド・クインシーは言ったが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われたのではなかった。

同じ物体である月が季節によって三日月にもなれば満月にもなり、天気によって雲がかかることもあれば、雨に霞むこともある、また、時代や民族によって象徴的な価値が異なってくることもあろう、それと同じように、マルクス・アントニウスという人物の長所欠点をひっくるめた柄の大きさは、人間の心理についてあまりにも実際的な観点しかもっていなかったローマ人や情念についての心理学を発展させることのなかった中世では十分に理解されず、シェイクスピアによっていわばロマン主義的に描かれるまで全体として捉えられることがなかった。

つまり、判断する時代の視野の偏りがあるためにアントニウスは欠けたところのある人間として考えられてきた、というわけである。

ところで、大内先生にはなにか欠けたところがある、と『イザベラね』のぼくは言うが、なにもそれは、縁の欠けた皿が皿として欠けたところがある、といった意味合いで言われているのではない。欠けた皿は欠けた部分を接いでもとの形に戻すことができる。そうしたどこかで取り戻すことのできる欠損が大内先生にあるわけではない。

ぼくと一緒にストリップ小屋をまわる大内先生(元々は軽演劇の作・演出の先生だったためにそう
呼ばれているのだが)は、確かに非常に怠け者のようだが、昔からの仲間やストリッパーの亭主やヒモと較べてずっと怠惰だとは言えない。欠けているというのは、他人と比較して欠点が目立ったり多かったりすることではない。

実際、欠けているということでぼくが持ちだす具体的な事実とは、大内先生がいつもすぐ電話にでる、そのことだけなのである。ぼくの言葉は、人間にはなにか欠けたところがある、と言い換えることができる。理想的な人間像があって、それに達するまでにはまだ欠けたところがある、というのではなく、なにと特定することはできないが欠けたところがある、と言っても不正確で、欠けてないないかがあるのではなくて、ただ、欠けているだけ。

そして、げんに、ぼくは、よくしかたがないので、と言うけど、しかたがないってのは、なにかをしたかったが、しかたなく、ほかのことをしたとか、それをしなかったってことだけど、ぼくの場合は、なにかをしたかったが、しかたがなくではなくて、ただ、しかたがないだけのことだ。

2013年11月25日月曜日

コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』



 2005年刊行。コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)の原作。

 テキサスの荒野で狩りをしていた男が、銃撃戦があったとおぼしき場所に出くわす。そこで麻薬と札束の詰まったバッグを見つける。狩りの経験もあり、ヴェトナム戦争の帰還兵でもあり、クレバーでもある彼は、面倒を背負い込むことになるとわかってはいるが、自分の力で処理できると考えて、金を持ち去ってしまう。

 ところが、撃たれて死にかけていた男が水を欲しがっており、それが気になって、ちょっとした出来心というか、慈悲心というか、水をもって現場に戻ったことがきっかけになって、身元がわれ、シュガーという殺し屋に追われることになる。

 この殺し屋の造型が見事で、感情をまったくあらわすことはないし、金で買収されることもない。邦題では「血と暴力」とあるが(訳者である黒原敏行のあとがきによれば、原題の、No Country For Old Manはイェーツの『ビザンティウムへの船出』が出典だという)たしかに血と暴力はふんだんにあるのだが、暴力にありがちな衝動性はまったく欠けている。

 この独特な殺し屋の雰囲気は、引用符のない会話、極端に比喩の少ない直截的な文章の魅力とともに、結末近く、殺し屋を追う保安官と検事との会話にあらわれているだろう。

 あれはまあ幽霊みたいなもんだ。
 みたいなものなのか幽霊なのかどっちだね?
 いやあの男は本当にいるよ。いないのならいいと思うが。本当にいるんだ。
 検事はうなずいた。幽霊ならあんたも心配する必要がないんだがね。
 おれはそのとおりだと言ったが、その後それについて考えてみて思ったのはあの検事の問いに対しては、この世界である種のものに出食わしたとき、あるいはある種のものがいるという証拠に出食わしたときにこれは自分で立ち向かわないほうがいいと気づくことがあるが実際あれはそういうものの一つだったんだと思うという返事をすべきだったということだ。あれは頭の中にいるだけではなく本当にいるんだと答えたとき結局のところ自分が何を言ったのかおれにはよくわからない。

2013年11月24日日曜日

ピーター・サイクス『悪魔の性キャサリン』



 1976年。
原作:デニス・ホイートリー
脚本:クリストファー・ウィッキング、ジョン・ピーコック
撮影:デヴィッド・ワトキン
音楽:ポール・グラス

 ハマ—・フィルム。予告編を見ると、『ローズマリーの赤ちゃん』や『エクソシスト』に続こうとしたものらしい。

 異端の神父(クリストファー・リー)が育て上げた子供(ナスターシャ・キンスキー)を使って、悪魔を復活させようとする。母親は最初から神父の信奉者であったが、父親は良心のとがめから逃れられず、儀式の直前、悪魔額に詳しい作家(リチャード・ウィドマーク)に助けを求める。

 作家は異端に詳しい神父などの教えを請うて、少女を救いだすことに成功するのだが、悪と神との代理戦争の側面はあまりなくて、現場を見つけたあとは結界も簡単に破って少女を取り戻してしまう。

 豪華な出演陣ではあるが、特に見せ場はなく、生まれたての赤ん坊の造形がややグロテスクな程度。

 原作者のデニス・ホイートリーは懐かしい名前で、国書刊行会から刊行されていた選集はよく眼にしていた(主に古本屋で)。もしかしたら何冊か読んだかもしれないが、内容なまったくおぼえていない。