2015年7月17日金曜日

幻惑的な直喩――円地文子『小町変相』


 『大言海』によれば「すげむ」とは、「年、老イテ、口、歪ム。又、歯、疎ナリ。」とあり、滅多にみない言葉であるが、案の定、用例としてあげられているのは、円地文子もまた現代語訳した『源氏物語』からだけである。しかし、辞書を引く前から、なにかおどろおどろしい雰囲気は漂っている。

 麗子の微かなすげみをみせた唇から毒々しい言葉が吐き出される時、曖昧な窪みをただよわせた頬のあたりには濃いなまめきが滲んだ。 夏彦の肌が縮んだ。その鮫立ちの一つ一つに麗子の吐く濃い息吹がふきつけられているようであった。 「夏彦さん」 たぐり寄せるように麗子の手が夏彦の肩にのびた。 「夏彦さん、あなた、私をお母さんに勝たせてくれる?私をもう一度女にしてくれる?私、あなたのなかのお父さんにもう一度逢いたいのよ」 夏彦はふるえていた。肌の粟立ちが頬までのぼって来て、口の中で歯がかちかち触れた。 「寒い!」 と彼は言って、麗子の絹漉し豆腐のように軟らかい手を払いのけた。しかし手は彼の力ない拒絶をおしのけて、まるでところてんのようにするすると滑り落ちながら、彼の肩に胸にまつわりついて来た。『小町変相』

 老いているから歪んでいるのか、歪みが老いを垣間見させるのか、腐りかけのものがもつデカダンスがにじみでている。

 しかし、それよりも感心したのは、豆腐とところてんの直喩である。もともと直喩というのはさして重要視されない。現代作家では私の気づく限り、安部公房や村上春樹は意識的で工夫をしているが、それ以外は思いつかない。

 そもそも隠喩と比較して直喩が軽視されがちなのはいまに始まったわけではなく、既にアリストテレスは、隠喩よりも長くなるし、隠喩のように「~は~である」という新たな観点を引き入れるわけではないので、それ以上精神を喚起することがないゆえに、より関心を引くことがないとしている。

 だが、むしろいま、より困難なのだといえるのは印象的な直喩だろう。凡庸な直喩はエンターテイメント作品のように雰囲気を醸成し、文の累積のなかで消費されていけばすむが、「文学的」あるいは「詩的」であることを目指して直喩に向かうことは、よほど鈍感か、自覚的であるしかない。

 円地文子の文章は、困難な行程を見事に乗りこなしている。というのも、手が絹漉し豆腐だという隠喩であったなら、あまりに容易に崩れてしまう豆腐と身体のなかでももっとも器用でしなやかな手を並置することは、さほど印象的だとは思われなかっただろう。つまり、この比喩を輝かせているのは、手が豆腐やところてんのようであっても、決して実際には豆腐やところてんではないという点であり、直喩の「のように」という言葉こそが胆となっている点にあるのだ。

2015年7月14日火曜日

超自我と声



 声は、意見を言い、反対し、代わりとなって語る。闘争的な声は、虐待された無言の犠牲者たちに代わって虐待する/言葉に反対して戦っている。それは確かにひとつの声である。というのも、告発には声という音が必要とされるからである。それゆえに超自我は常に声に結びついている。テキストにおける声は世界を弾劾すると同じく、「あなた方」犠牲者に語りかける。「対象」としての声は常に告発の道徳性を補強するが、常に流されることを楽しみ、行き過ぎとなり、実際、道徳の命じるところと矛盾する。逸脱がある点までくると、声の名のもとに発せられた禁止に反対する、あるいは付加される形で、声が自らのためになにを欲しているのか常に問うことができる。この声のよこしまな享楽とはなんなのだろうか。

 発話レベルの内部でのこの分裂は、超自我の分裂した性格のある働きである。こうした分裂は命令を発する者にとって常に問題となる。命令を発するとき、どうしたら行き過ぎ、自らを裏切って判断という道理に基づいた公平無私の行為を蝕むサディスティックな満足を生むことになる享楽なしで済ませることができるのだろうか。問題を否定することは常にそれを悪化させることになる。超自我の分裂は、フロイトが認めたように、矛盾以上のものであった。超自我そのものが区別するよう命令を発し、それによって道徳的法と罰する快楽、表象と出来事とが分けられるようになった。このことは必然的に、ほかにいい言葉がないのだが、願望と行為、幻想と罪悪の相違、つまりは去勢を受けいれることが伴う。しかし、同時に、超自我の恐ろしい声(シニファン)はまったく相容れない正反対の方向に働くひとつの対象(声そのもの)としても存在しうる。それは去勢によって開いた亀裂を満たす。そこで声が亀裂を完全に覆い隠し、審判者は自分たちの仕事を真に楽しみ始めるのである。

 自分が視覚的な人間なのか聴覚的な人間なのか、よくわからない。もともと人間関係については記憶力に欠けたところがあって、大学時代の同級生さえあまりおぼえていないのだが、場所にまつわる記憶は鮮明で、夏をよく過ごした街などは歩く速度で端から端まで追体験できる気がする。こうした記憶はもちろん、視覚的なものだといえるだろう。

 しかし、親しい友人や亡くなった人物のことを思い返すと、顔はぼやけ、むしろ声だけがよみがってくる。もともと、子供のころにテレビがないほどの旧世代ではないが、ラジオで育ったことは確かで、特にTBSの『一慶・美雄の夜はともだち』は大好きで、なかでも渥美清のローマンス劇場、夜のミステリーは印象的で、夜のミステリーはいまではほとんど放送されなくなってしまったラジオ・ドラマで、『世にも奇妙な物語』やそのもともとをいえばアメリカの『トワイライト・ゾーン』に連なるような、推理もののミステリーではない、後に「奇妙な味」といわれることになるようなもので、鈴木清順なども原作者として名を連ねていた。

 『オールナイト・ニッポン』の黄金期にはもちろん夢中になったが、情けないことに大体が寝落ちしてしまい、最後まで聴いたのは数えるほどしかない。

 フロイトの超自我は、自我に対して道徳や倫理を要求し、しかもそれは一般的な道徳観と必ずしも一致するとは限らない。そしてまた自我に対する支配力を楽しみはじめる。ヒッチコックの『サイコ』などはその典型的な例であろう。

 だが、私自身には超自我が声と重なるという実感はさほどない。命令することもされることも嫌いだし、怒鳴り声や、そもそも大声自体が好きではなく、幸運なことに強圧的な声と命令とが重なることがなかったこともあるかもしれない。入院したときに幻覚をみたことがあるが、幻聴はいまだに経験したことがない。

鈴木清順『夢二』


 鈴木清順の大正ロマン三部作といわれるもののなかで、『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』は何回見たかわからないが、『夢二』はそれほどではなく、それでも5,6回は見ているだろうか。今回改めて見直してみて、もちろん十分面白いものではあるが、前二作には至らないと改めて感じた。

 ひとつにはあまり開放感がない。室内のシーンが多く、外にでても、金沢の山中であるので、密閉感がある。それゆえ運動感がない。『ツィゴイネルワイゼン』の原田芳雄や藤田敏八は常に歩いていたし、『陽炎座』の松田優作も必死の形相で歩きまわったものだが、夢二役の沢田研二はどちらかといえば寝ころがっているだけなのだ。『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花のいくつかの作品が組み合わされていたが(脚本は三作とも田中陽三)、『夢二』には原作といえるものがあるのか、実生活のどの程度の挿話が取られているのか、ロケーションや伊藤晴雨の元モデル、稲村御舟といった人物が実際に関わりをもったのか、夢二そのものにはさほど興味がない私にはよくわからない。

 俳優が毬谷友子にしろ宮崎萬純にしろ、沢田研二にしろ坂東玉三郎にしろ、軽やかすぎる。清順的登場人物といえば、『ツィゴイネルワイゼン』でいえば藤田敏八、『陽炎座』でいえば中村嘉葎雄、そしてなんといっても大友柳太郎といった存在自体が画面にわだかまるような人物がもっとも魅力的なのだが、『夢二』にはそうした人物が登場しない。ちょうど核となるオブジェ、イメージが『ツィゴイネルワイゼン』の骨、『陽炎座』の酸漿であるのに対し、紙風船というふわふわした情緒的なものなのも残念。

 広田玲央名は『陽炎座』でいえば加賀まりこの役割なのだが、いかんせん貫禄が不足している。もっとも大きな漬物樽につけられる場面は面白かった。

2015年7月11日土曜日

モンテ・ヘルマン『断絶』



 何十年かぶりにようやくモンテ・ヘルマンの『断絶』を見返すことができた。

 1971年の映画で、公開当時にみたとは到底思えないので、大学生のころにビデオでもみたか、あるいはテレビでみたようなこともあるかもしれない。おぼろげに印象に残っていたのは面白かったということとロード・ムーヴィーであることと、道路にたたずむ男の姿だけだった。更には、邦題に引きずられたのか、中年男と若者との「断絶」の話だということくらいだった。

 しかしなによりもまず、『断絶』は車の映画である。不思議なことに、子供のころはミニカーを集め、襖には車のシールを貼りまくり、道路を走っている車の車種をすべて言い当て、スーパーカーの展示会には幕張まで行ったにもかかわらず、いま記憶に残っているのは形状が明らかに異なるランボルギーニ・カウンタックくらいなのだ。免許を取らなかったことがあるかもしれないが、その理由ははっきりしていて、暇さえあれば酒を飲んでいた私は、運転することなどないと思っていた。いまはまったく酒を飲んでいないので、免許くらい取っておけばよかったな、と思わないでもないが、もともと余り注意深くないので、免許があったなら、とっくにこの世にいなくなっていたかもしれない。

 そのためばかりでもないだろうが、車についての映画、特にバート・レイノルズが主演していたような映画群についてはぽっかり穴があいている。それゆえ、印象に残っている車についての映画といっては、ウォルター・ヒル『ザ・ドライバー』、タランティーノ『デス・プルーフ』、レフン『ドライヴ』くらいである。

 『断絶』の主人公たちはレースを続けながら、アメリカ大陸を横切っていく。レースといっても、ヨーロッパ風のドライビング・テクニックが大いに必要とされるような曲折に富んだものではなく、スピード勝負の直線コースである。ときどきテレビなどで見て、なにが面白いのかと思ったものだが、古い車種を改造して、どれだけ抵抗をなくし、車体に見合ったエンジンを載せるかと考えはじめると、この映画の主人公がそうであるように、どれだけストイックになってもなりすぎることはない。

 彼らがそうして転戦しているうちに、若い女と中年男が加わることになるが、恋や深い愛情に発展することもなく別れていく。敷かし、それを「断絶」といってしまっては映画を不必要に深刻めかすことになり、むしろ日常にあるのはそうした小さな擦れちがい、触れあいであり、もちろんそれは映画の主題とはならないと思われてきたので、映画史的な「断絶」はあるかもしれないが、そうした日常を描くことが珍しくなくなった今日からみれば、単純にとても面白い映画である。

2015年7月4日土曜日

非連続的な音楽



 部屋中のものをひっくり返す事情があって、しばらく目にしてなかった本もあったが、よく聞いていたCDがでてきた方が嬉しかった。というのも、よく聞いていたものが大事なので、専用のケースに入れていたところが、そのケース自体が引越したときに奥まったところに置かれてしまったために、引っ張り出す機会がなかったのだ。デレク・ベイリー、セシル・テイラー、ジェリ・アレン、ジェイムス・ニュートン、アンドリュー・ヒルなどといったフリー、あるいはポスト・フリート呼ばれるアヴァンギャルドなジャズがでてきた。

 そもそもジャンルでいうとジャズがもっとも好き、というか最も長い時間聴いていられる音楽なのだが、ビック・バンドやビ・バップもたまに聞くといいが、しばらく聴いているとどこかじれったくなってきて、混沌としたフリーにたどりついてほっとする始末なのだが、あえて理屈をつけてみると、フリー、あるいはいつでもフリーへと転化するポスト・フリーでは、テーマこそみられることもあるが、他の音楽では大体においてみられる終わりに向けての勾配がほとんどない。つまりはどこで終わってもいい音楽であり、形容矛盾とも思われるような非連続的な音楽なのである。AACM(Association for the Advancement of Creative Musicians) 出身であるトランペッター、レオ・スミスは次のようにいっている(印象に残ったので書き抜いていたのだが、どこから引用したのかわからなくなってしまった)。

 私の作品は多面-即興である――最初の音は展開していくものであるとともに既にしてクライマックスである。私は点から点に移動することはない。なぜなら各点は既に出発することのうちに含まれているからだ。

 ベルグソンは純粋持続の好例として音楽をあげたが、非連続な点としての音楽がここにはある。もちろん、非連続な点だけでいいというなら素人のでたらめと何の変わりもなく、創造的な瞬間の連続というほとんど無謀とも思えることが要求されており、そうはいってもフリー・ジャズの多くが退屈なものにとどまっているのは、いかにこの要求が無謀であるかの傍証でもあるだろうが、それだけにそうした無謀さを成功させる人物には頭が下がる。



 ぼんやりと伊東四朗と羽田美智子が主演の『おかしな刑事』をみていたら、落語の『王子の狐』が話を引っぱる大きな要素となっていて、狐信仰や民俗へと拡がっていくのだが、おかしいなあ、何回聴いても筋のよくわからない、落語家が内職をする話で、民俗学的なこととは関係がないはずだがなあ、と思って確認すると、案の定、私は『今戸の狐』と勘違いしていた。

2015年7月1日水曜日

衝撃の展開




 映画のネタバレについては最近非常に過敏な状況で、私などはあまりに過敏すぎると思われる。いくら内容について詳しく語られようが、私などさして気にならないのだが、しかし考えてみると、自分の好きな監督や楽しみにしている作品となると、やや話は異なっていて、気になっている作品だから、聞きたくなってしまうもので、おおむね聞いたからといってどうということもないのだが、紹介番組でも宣伝文句にもよく使われる衝撃のラストというのだけは勘弁してもらいたい。衝撃のラスト(あるいは展開)ということが最上のネタバレなのではないか。最近の例でいえばデヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』がいい例で、衝撃的な展開ということがあまりに言われていたので、あまりに期待していたせいか、正直なところどこが衝撃的なのかよくわからなかった。あまりに衝撃が喧伝された結果、衝撃への期待がインフレ状態となり、現実の作品がそれに追いつかなかったのだ。もっとも、映画そのものは期待したとおり面白かった。

 アレックス・デ・ラ・イグレシアはスペイン出身の監督で、これまで一本も見たことがなかった。2008年の『オックスフォード連続殺人』は、大学の町オックスフォードを舞台に、ちなみにイギリスのグラナダ・テレビのモース警部シリーズ(コリン・デクスターの原作)もオックスフォードが舞台になっているが、高名な数学者とその学生とが連続殺人の謎を解くという内容としていえば、テレビ・ドラマとさして変わりはないのだが、最初の被害者が発見される場面、教授と自転車に乗った学生とが通りですれ違い、別の道を通って同じ家にたどり着くと、玄関で合流し、家のなかに入って死に顔をさらす老女のクローズ・アップがワン・カットでとらえられて、それは死に顔のアップから後ずさりし、そのまま階段を降りて扉が開き、街の喧騒のなかにある家をとらえるまでを同じくワン・カットでとらえているヒッチコックの『フレンジー』へのオマージュとも思われるのだが、衝撃の展開とは言わないが、ちくりと一刺しされるかのような心地よさを伴っている。