だいぶ前に読んでいたが、積み重ねた本が崩れてたまたま手にとってぱらぱらとめくっていると印をつけている部分があって、やはり面白いので、紹介してみる。
議論の土台になっているのは翻訳がでているトマス・ラカーの『セックスの発明――性差の観念史と解剖学のアポリア』である。
ラカーによると、我々が一般的に理解している性差、つまり「二つの性」、「二つの肉体」があり、男性と女性が対立し、根本的に異なったものであるという考え(ジェンダーではなく生物学的な性のことである)は、比較的最近、ほぼ近代に入ってからのものだという。
医学、言語、絵画、物語などの様々な事例から判断すると、前近代においては性は単一の生殖/再生産のシステムが外部にあらわれるか、内部にあらわれるかの違いであり、形と働きにおいて本質的に同じである。
男性がペニスを、女性がヴァギナをもっているのではなく、単一の性のあらわれ方が違っているだけだ。つまり、ペニスとヴァギナは同一の器官であり、一方が外に引っ張られ、他方が内側にたぐり込まれているに過ぎない。
もちろん、そのあらわれ方には優劣があり、男性が単一の性の本来のあるべき姿とされ、女性は裏返されたペニスをもつ不完全なものとされたが、性差という概念はなく、程度の異なる単一の性があったのである。
ところで、狼男、吸血鬼、アンデッド、憑きものなどの物語はもともとそうした単一の性という考えが支配的な時代にその源をもっている。つまり、ホラーというのは単一の性というテーマ群の貯蔵庫なのだ。
そうしたクラシックなホラーから発展変化したモダン・ホラーもまたそうであって、一見、男性的な視線によって女性が陵辱されるそれこそ男根主義的な原理に従っているかに思われるが、また実際そうした単純な原理によって見世物化しているホラー映画も多いのだが、大量に生産され消費されてきたスプラッターやスラッシャー映画のなかで浮かび上がってくるのは、男性と女性という性差が流動化し、単一の性が支配している世界なのだ。
そうした映画では、男性も女性も見境なく殺されるし、殺人鬼が性的な欲望をもって犠牲者を選ぶこともない。そもそも殺人鬼は『サイコ』から『十三日の金曜日』まで、両性具有的な存在である。ジャンルの初期において、最後に生き残るのは女性であるのが定番だったが、その女性は恋人とセックスをすることもなく、いわばもっとも男性的な女性、もっといえばモンスターともっとも近しいものだったのである。