2013年8月27日火曜日

アランと古今亭志ん生のあくび指南

『鬣』第5号に掲載された。 




わたしは、寄席育ちというには遙かに遠く、落語を聞くのはもっぱらCDとテレビやラジオである。それでも、『あくび指南』は、多分、幾度となく聞いていると思う。内容はおなじみであろうが、町内にできたあくび指南所なるところに、男がいやがる友達を連れてあくびを教わりにいく。だが、何回やっても一日船遊びをした後の倦み疲れたあくびというのができない。一緒にいる友達のほうが馬鹿馬鹿しくって退屈で、大あくびをしてしまう。それを見たあくびの師匠が、「あっ、お連れのほうが器用だよ」

手元にあるのは五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん、それに立川談志のものである。この三者三様の『あくび指南』では、志ん生と小さんのものが鮮やかな対照をなしている。

小さんが噺家にとって人物描写、情景描写がいかに大切かについて話すとき、その例にあげるのが『あくび指南』だったという。

「何しろ、あくびを教えるんだからね。さんざんいろんなことをやってきたあげくのことだから、酸いも甘いもかみわけた風格が、自然とにじみ出てくるような人物でなきゃァいけないン。そういう人物描写を心がけなきゃァ駄目なんだ。くっついてきた友達だって、どういう場所にいるのかきちんと描かなきゃァね。これが情景描写。習ってる奴の隣にいるような演り方をしてるのがあるが、これじゃァ駄目だな」と言ったという(川戸貞吉『落語大百科』による)。

実際、小さんが演じるあくびの師匠は、ゆったりとした悠揚迫らぬ口調で「酸いも甘いもかみわけた風格」がでているようでもある。そして、すくなくともわたしが目にし耳にするかぎり、大部分の噺家はそうした形で演じている。つまり、人物描写、情景描写がきちんとできているかどうかはともかく、あくびの師匠はいかにもあくびを教える師匠らしく、鷹揚な態度でゆったりと語り、なにかしらの「風格」をだそうとしているのである。

志ん生の『あくび指南』でまず目を引くのは、その異様な早さである。志ん生は小さんの約半分の時間でこの噺を演じきる。あくびの師匠にはなんの貫禄もなく、教える口調に至っては、ゆったりとしたものどころか、せかせかした、むしろぶっきらぼうと言っていいほどのものである。もう一つの大きな相違は、師匠の口立てに男がつっかえたり、つい日頃の乱暴な言葉づかいをしてしまうところにこの噺の笑いがあるが、志ん生の場合、それに加えて、師匠の早い口調に誘われるように、教わっている男はあらぬ横道に妄想を走らせてしまうのである。 師匠の教えはこうである。

  「さよう、まずところはてえと、首尾の松(蔵前橋のやや下流、柳橋寄りにあった松)あたりですかナ、(煙管を右手で斜めにかまえて)こういうような具合にしてなァ。船頭が向こうにいますからな──、        〝おい、船頭さん、舟を上手の方にやっておくれよ。これから堀ィ(山谷堀)上がって一杯やって、夜は吉原へでも行って、新造(遊女)でも買って遊ぼうか。舟もいいが、一日乗ってると・・・・・・、たいくつで、たいくつで・・・・・・、はァああァ・・・・・・(と、あくびをしながら)ならぬ〟」(『志ん生滑稽ばなし』)


一方、教えられる男の方は、


   おい、船頭さん、舟を上手の方へやっておくれ。これから堀へ上がって、一杯やって、夜は吉原へツウッーて行くてえと、女が待ってて、
   〝あら、ちっとも来ないじゃないか〟
   〝いそがしいから、来られねえンだ〟
   〝うそォつき、わきにいいのができたんだろう〟
   〝そんなことないよ〟
   〝そうだよ〟
   〝あたしがこれほど思っているのに、本当に、くやしいよッ〟
     って喰いつきやァがるから、
   〝痛えッ!〟


と、あくびにまでたどり着くことができない。

ところで、アランは、その『幸福論』の一項目であくびを怠惰なだらしなく流れだすものという印象から解放し、称揚している。


   犬が暖炉のそばであくびをしている。これは猟師たちに気がかりなことは明日にしなさいと言っているのだ。気取りもせずどんな礼儀もなしに、伸びをするあの生命力は、見ていてもすばらしいし、引き込まれ真似をしたくなる。周囲の人たちはみんな伸びをし、あくびをしたくなるはずだ。これが寝支度の開始となる。あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。 (神谷幹夫訳)


あくびは伝染するものだと言われる。だが、アランによれば、それ以前にその場に伝染し、蔓延しているものがあって、それが「事の重大性であり、緊張であり不安の色」である。あくびは、実は、そうした緊張や不安の治療薬として伝染するのである。疲労や退屈のしるしとして伝染するのではない。「あくびがうつるのは深刻な態度を放棄するからであり、何も気がかりがなくなったことを大げさに宣言するからのようだ。それは整列している人たちを解散させる合図のようなもので、だれもが待ち受けている合図なのだ。」

笑うことや泣くことも、脇目もふらずに自らの活動を続ける精神の注意を肉体の方に向ける力をもっている。しかし、笑うことや泣くことには「二つの思考、すなわち拘束しようとするものと解放しようとするものとの間の戦い」が避けがたい。笑うことや泣くことはより一層意識的であり、あくびと比較すると敷居の高いものなのである。あくびとは、人間がそれをするにしても「犬のあくび」と本質においてなんら変わりのないものであり、むしろすべての思考を捨て「生きることの気安さ」に積極的に赴き、「犬のあくび」をあくびすることである。

同じ姿勢で、何時間も集中してなにかをした後の伸びやあくびはなんとも言えぬ安逸感をもたらすとともに、精神に対する賦活剤でもある。集中することによって狭くなっていた視野が安逸のもたらす気楽さのなかで再び広くなり、休息を与えられることで精神は新たな力を得る。こうした意味で、アランのあくびは、退屈から生まれるものではなく安逸を生むものであり、精神と肉体の健康のバロメーターであると言えるだろう。

しかしながら、さして仕事をしているわけでもないのに強烈に襲ってくる睡魔や、なにをしようにもする気が起きない退屈の極みを体験したことのある者なら、仕事の後のすっきりしたあくびとは異なった種類のあくびがあることを知っているだろう。このあくびは安逸感をもたらすどころか、底なし沼にずぶずぶと沈みゆく身体が空気を求めてもがくのに似ていて、何回あくびをしようが空気は得られず、身体は更に泥のなかに沈んでいく。このあくびは「精神に暇を出す」ことでも、「健康の回復」でもない。アランが言うようなあくびの働きをまったく果たすことのない、「大変革」とは無縁な不活性なものなのである。

さて、『あくび指南』にも二つのあくびが登場する。師匠のあくびと、連れの男が二人のやり取りを見ていてもらすあくびである。連れの男のあくびがアランのあくびに通じるものであることは明らかだろう。


なにォいってんだよ、おめえたちは。え、二人でくだらねえこと言ってやがらァ、本当に。(中略)         ああ、あッ・・・・・・、何がたいくつだよ。え、やっててたいくつかよ、てめえは。さっきから待ってるオレの身にもなってみろ。こっとのほうがよっぽど、たいくつでたいくつで・・・・・・、はァ・・・・・・(大きなあくびをしながら)あーあー、ならねえ


男は「くだらねえ」とあくびをすることによって、この状況すべてを批判し、観客としての自らの立場を放り投げることで退屈から安逸に向かおうとする。この男は健全な批判的精神のもち主である。師匠は「お連れのほうが器用だよ」とほめるが、男がしたあくびは、舟遊びにも退屈を覚え、しかも、次の日もまた次の日も同じような変わりばえのない日が続くのだと漠然と思うでもなく感じている男のぐったりと沈降していくあくびとは関係がない。退屈に取り囲まれ押しつぶされるあくびではなく、退屈から脱するためのあくびだからである。

だが、もちろん、志ん生の『あくび指南』の魅力は連れの男の健全な反応にあるのではない。あくびなどにはまったく関わりがないにもかかわらずあくびの教えを受けている男と退屈に沈み込むようなあくびを教えようとする師匠との激しい戦いにある。

志ん生は、関東大震災の日、「まごまごしていると、東京じゅうの酒が、みんな地面に吸い込まれちまうんじゃァなかろうか」(『びんぼう自慢』)という心配でいても立ってもいられなくなって酒屋に駆け込む。酒屋の方ではお客などかまっていられない。「ゼニなんぞ、ようがすから、好きなだけ、呑んでください」というのを聞いて志ん生はその場で一升五合をあおり、割れてない一升瓶二、三本を「赤ん坊でも抱くように」かかえて家に戻る。また、酒が飲めるというので戦争中満州に行き、敗戦が決まりまわりが物騒になると、いっそ死んでしまおうとウオッカを六本飲んで自殺しようとする。まさに、この志ん生の、欲望が強烈なあまり妄想にまで流れ込むような強烈な性格を受け継いでいるのがあくびを教えて貰っている男である。

一方、あくびの師匠は、正宗白鳥が江戸時代の文学について皮肉混じりに言った「無気力の幸福の天国」の教えを伝える者だと言えるだろう。その世界は、また、落語がその半身をどっぷりと浸している世界でもある。かくして、志ん生の『あくび指南』は、志ん生と落語との両者一歩も引くことのない闘争の実況として聞くことができる。

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