『鬣』第5号に掲載された。
ある日、夢を見た。夢というより、異様な快感である。自分の細胞のひとつひとつに蟻が這うようなむずがゆい感じがする。そこからぞくぞくするおののきが芳醇たるワインの香りのように一時に湧きだしてくる。全身の皮膚の表面から骨の髄までこの快感から逃れることはなかった。
だが、この夢は二重の裏切りのように思われる。第一に、睡眠中の感覚は、覚醒時に較べてずっと弱い効果しかもたらさないはずだから。覚醒時は神経組織全体で対象を捉える。睡眠時に働いているのは神経組織の一部だけである。いわば、覚醒中は神経組織全体が共鳴するが、睡眠中は脳の一部で反響が生じるに過ぎないはずなのである。身体全身に及ぶこの強烈は快感は夢にはふさわしくないように思われる。あるいは諸感覚を統合する魂のようなものを考えなければならないのだろうか。それならば快感を受けとったのは魂なのだと言える。
第二に、この快感はどう考えても食べる快楽とは結びつかない。食卓の快楽には年齢、境遇、出身地、時機の相違は関係ない。どんな快楽とでも結びつくし、ほかの快楽が消えうせても最後まで我々を慰めてくれる。この世界の空間と時間をおよそ隙間なく埋めつくしている快楽であったはず。しかし、夢での快感には、味覚の記憶も、食卓での素晴らしい食事と機知に富んだ会話が残してくれる濃厚な時間の感覚もなかった。
そもそも人間に関する大部分のことは口、胃、腸、肛門という食物を通じてひとつながりとなる器官のなかで説明できてしまう。どんなものを食べているか言ってくれたまえ、君の人となりを言いあててみせよう、というわけである。上からではなくて下からでも。胃の働き具合を言ってくれたまえ、君の好みの文学を言いあててみせよう。便通の規則正しい人は喜劇を、しまり屋は悲劇を、ゆるみがちな人は哀歌や牧歌を好むはず。
人の好き嫌いなど所詮消化作用の違いに帰することができる。口から肛門までの器官のつながりが全細胞を沸き立たせる快感のなかに埋没していることは、この快感がなにか非人間的なものなのだと思わせるに足りる。だがしかし、よく考えてみると、この快感は我々に身近なもののようでもあった。身近ではあるが我々が決して経験したことのない感覚、つまり、<食べられる>ことである。
ある一つの可食物質が口の中に入ると、その液体から気体までなにもかも没収されてしまってなにも残らない。
まず唇がその逆行をさまたげる。歯が捕え噛み砕く。唾液がしみこむ。舌がひっくり返してこねまわす。吸飲運動がのどのほうに押していく。舌がすべりこませようと盛り上がる。途中で臭覚がちょいとそのにおいを嗅いだかと思うと、早くも胃の中におさまって次の変形を受け始める。これらの全過程をつうじて、この物質は一かけらも、一滴も、いや一原子といえどものがれられるものではない。人間の味覚能力にまるまるゆだねられるのである。(松島征訳)
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