『鬣』創刊号に掲載される。好きな人物の読書を読書するというコンセプトだった。
ちなみに吉田健一のベスト3は1.『時間』2.『金沢』3.『怪奇な話』というところか。
F・L・ルーカスの名前は、もしかすると、ケンブリッジの学生であったときの吉田健一の先生として記憶にとどめられていることがあるかもしれない。だが、その吉田健一が、「Frank Laurence Lucasの名前も日本では知られてゐない」と書いた状況は現在でもさほど変ってはいないだろう。平凡社、小学館の百科事典にこの名前はなく、新潮社の『世界文学小辞典』に短い記述がある。
(一八九四- )イギリスの批評家。ケンブリッジ大学で教鞭をとる一方、「ブルームズベリ・グループ」の一員として批評活動を続けた。精妙な鑑賞眼と優雅な文体を駆使しながら、イギリス文学をはじめ近代ヨーロッパ文学に深い造詣を示し、『良識を求めて』(五八)、『生きる芸術』(五九)など多数の作品を書いている。特に十八世紀文学にすばらしい共鳴をみせ、また近代劇に関する仕事を発表している。
死亡年は明らかでないが、吉田健一が『交遊録』でその思い出を書いたときには既にこの世にいなかった。ちなみに、この文章は吉田健一についてのモノグラフを書き、親交のあった篠田一士によるもので、吉田健一が招き寄せた事項と言えるかもしれない。ルーカスについての最もまとまった文章は、多分、『交遊録』の一編で、この二人の、先生と生徒との具体的なつき合いがどのようなものであったかについて語られている。
ルカスは講義は誰と誰のに行くといいとか読んで参考になる本とかキングズで英国の文学を専攻するに就いての指示を与へた。そして講義や本の選択は結局はこつちの自由だつたが、その他に毎週の何曜日だつたかに定期的にそこに集ること、二週間毎に論文の題を出されて二週間以内にそれを書いて提出し、その論評を個別的にルカスから聞くことといふやうな具体的なことが決められた。(・・・)少くとも二週間に一度は二人切りで顔を合せて色々と率直な意見を相手と交換することになるのであるからかういふ大学では誰が自分の先生(ケンブリツヂならばsupervisor)で誰が自分の弟子と修辞の上だけでなしに言ふことが出来て事実それが普通の言ひ方になつてゐる。
二週間毎に本を読み、論文を書かねばならないのであるから、それだけで学校のことすべてがすむわけがないことを思えばかなり厳しいものだったはずで、実際、おそろしく勉強させられましたね、と吉田健一本人が福原麟太郎に語ったそうである。
ルーカスの文学的立場については、二つのことが指摘できる。一つには、ケンブリッジでルーカスが担当していたのはイギリス文学だが、それをギリシャ・ローマの古典からヨーロッパ文学に渡る広範な背景のもとに捉えていたことである。「ルカスと話をしてゐると英国の文学を発見する一方ヨオロツパの文学に眼を開かれる具合になつた。カトゥルルスの名前を最初に聞いたのもルカスからだつた。サツフォの名前は知つてゐてもこれが自分が愛する女と卓子越しに向き合ふ男は神々よりも幸福であると言ひ、恋人がない美少女を何故か取り入れの時に枝に残された林檎に喩へ、又女の愛を得る為に自分と戦友になつて戦へとアフロディテに呼び掛けた詩人であることを知つたのはルカスに教へられてだつた。ロンサアル、ダンテ、レオパルディ、ボオドレエル、又プルウスト、ドヌを読む気を起こしたのもルカスに何度も会つてゐるうちにだつた。」こうした文章を読むと、古典を含めたヨーロッパ文学を血肉とした、教養ということがまだその意味を保っていた時代の人物を想像することができる。
二つ目には、当時イギリスを席巻し、後にニュー・クリティシズムとして結実することになるエリオット、F・R・リーヴィス、I・A・リチャーズなどの批評に敵対する立場にあったことである。吉田健一によれば、エリオットの『荒野』がでたときに、それを認めなかったのはルーカス一人だけだったのではないかという。「ルカスがこの一派の欺瞞、見方によつては自己欺瞞に苛立たずにゐるにはその古典文学の知識が正確であり過ぎた」というのは吉田健一の言である。
さて、このルーカスの『ロマン主義理想の衰亡』(1936年)を吉田健一の文章と並べて読んでみたいと思う。とはいえ、比較研究をしたり、影響の及ぶところを探ろうという心積もりはない。吉田健一が読んだルーカスを知ることで、ルーカスを読んだ吉田健一が瞥見されればいいし、ラフォルグやヴァレリーやプルーストを読む吉田健一とは、当然のことながら、吉田健一の一面に過ぎず、エリオット・ポールの探偵小説を幾度も懐かしく思い出し、矢田捜雲の『江戸から東京へ』を愛読した吉田健一もいれば、ルーカスを読む吉田健一もあるのだということが確認できればいいのである。もっとも、影響ということについてつけ加えれば、「ルカスには詩人、或は文士と学者の両方の面があつてその学会に対する寄与にも拘らず詩人や文士の仕事により多くの価値を認めてゐたやうだつた。実はその頃までまだこつちは学者になるか文士になるかどつちとも決め兼ねる気がすることがあつて文士の方を結局選んだのに就てはルカスの影響が大きかつたことに今になつて思ひ当る」というような文章があって、ルーカスが、いま我々が読むことのできる吉田健一を生み出すのに寄与した一人だとは言えよう。
「ロマン主義の文学で繰り返される特性とはなんだろうか」とルーカスは問う。そして、「人里離れた場所、荒涼の地の物寂しい喜び、沈黙と超自然、冬と物憂さ、吸血鬼の恋に人目を忍ぶ逢引き、情熱の花に美しきものの死、ラドクリフの恐怖にサディスティックな残酷さ、幻滅、死、狂気、聖杯と辺境での戦い、不可能なるものへの愛」と列挙してみせる。しかし、ルーカスがロマン主義において本質的なものだとみなすのは、こうしたテーマや舞台の特異性ではない。
文明人はその内部で衝突する様々な力によってあちらこちらに引っ張られており、生の困難さとはひとえにそれらの力を調和させることにある。第一に、動物でもある人間の本能的な衝動がある。第二に、両親に始まる他の人間の影響があり、それが彼のうちに行動についてのある種の理想、してはいけないことについての良心を形成し、第二の本性にまでなる。人間はあるものを好いたり嫌ったりするだけではない。それらを好いたり嫌ったりする自分自身を好いたり嫌ったりするのである。第三に、知性は、人が「現実」と呼ぶものの影絵芝居をつくりだす。メレディスはこの三つを血(或はドラゴンや蛇)、霊魂、頭脳で象徴化した。フロイトは「イド」、「超自我」、「現実原則」に引き裂かれた不運な「自我」をより明瞭に描いている。もはや、問題は「世界、肉体、悪魔」から、世界、肉体、理想に移っている。
本能的、動物的な「イド」は我々の意識の届かないところで働き、我々の乗る馬が勝手に牧草のほうへ向かうように、欲望の対象に向かう。しかし、牧草は辿りつくことができない場所、禁じられた場所に生えているのかもしれない。「いけっこない」と現実原則は叫ぶ。「そんなことをしてはだめだ」と超自我は囁く。そして、乗り手である哀れな自我は、死にもの狂いに手綱を引くのである。
当然、自我はこうした三つの力に翻弄される生を困難なものと思う。事態を単純化するために自我は目隠しに頼る。馬に使うのではなく、乗り手に、自分自身に用いるのである。それは、なかなか解消できそうにない衝動や葛藤に対して眼を閉ざすことになる。衝動や葛藤は「抑圧される」。しかし、それらはエトナ火山の下敷きになって苦痛にのたうち続けるエンケラドスのように、無意識のうちで身もだえしているのである。 これが最近研究されている重要なこと、我々の心のなかで我々の知らぬうちに働くきわめて重大な過程である。フロイトの体系の多くはまったくのたわごとかもしれない。懐疑的であってもなんの害もなさそうである。だが、事態はまったく逆である。実際、次のように言えることこそが最も重要なのである。すなわち、「ものごとは事実そうであるかのように働いている、つまり、無意識の「イド」と部分的に無意識の「自我」と「超自我」が存在するかのように働いてる。」事実、人間に関する理論においては、このかのようにをしっかりと保持することが重要である。それがあって初めて理論はきわめて有用であることが証明され、我々をたぶらかすこともなくなる。理論とは支えになる松葉杖ではあるが、王のもつ笏でもなければ、魔法使いの杖でもないのである。
ともかく、我々の表面的な意識生活の下では、ある多大なものが働いているかのように思える。そして、眠っているとき、様々な観念や衝動が浮かび上がるのを押しとどめている検閲官、看守であるカロンやケルベロスは警戒を緩めているかのようである。そこで、囚われものであった観念や衝動は上部の世界、我々の夢に忍び込み、再訪することができるのである。だが、その時でさえ、それらは偽装してこの束の間の解放を楽しむのではあるが。(・・・)
思うに、人間の生きる生き方、そして人間のつくりだす芸術というものは、その人間の現実感覚と理想についての感覚、意識と良心をどれだけ厳格で抑圧的なものにするか、或は緩やかで余裕のあるものにするかに大いに左右される。時代が異なることによってこのことははなはだしく異なり、同じ時代でも個人によって異なる。人格の前意識的な、衝動的な側面をある者は(D.H.ロレンスのように)愛し、ある者は(チェスタフィールド伯のように)憎みさえする。我々のうちには誰にでもこの暗い湖があり、そこから意識的、理性的な部分が徐々に姿を現わすのである。そこから、わけのわからないものが、夜に、孤独の瞬間にまぎれておもてに踊りでる。まるで、もっと奇怪なものがこの隠された深みに住まっているかのようなのである。ある者はこの神秘的な湖の岸を夢見ることを愛す。釣りをしたり潜ったりしようとする者もいる。実験室や仕事部屋やダンスホールの下に塗りこめ、閉じ込めようと努める者もある。
芸術においては、こうした相違はことに重要なものであって、というのも、芸術的な創造や夢には多くの共通するところがあるようだからである。中世の詩人は夢を舞台に詩をつくる習慣があった。スティーブンソンは夢に出た人物に恩恵を蒙ったと述べている。外見上は感情がないかに見えるクラッグでさえベッドで作品を書いており、スコット嬢に「結構な部分が」夢から得られていると語ったそうである。阿片は『クビライ汗』、『阿片吸引者の告白』、クラッブの『ユスタス・グレイ氏』を生み出している。素面でないと創作しないという者でも、良い考えの訪れというのがどれほど神秘的であり気まぐれであるか、どれだけ容易く逃げ去ってしまうか知っている。だからサミュエル・バトラーは「勢いをつける」ためにもノートをとる必要があると考えていた。芸術家のうちでも最も慎重で意識的な古典主義者ポープでさえ、凍りつくような夜、思いがけず訪れた考えを紙に書きとめておくために、再三再四写字生を呼び寄せたという。より古典的なドライデンにまでさかのぼっても、無意識の働きの予兆が見て取れる。『恋がたき』の献辞に言う。「この価値のない贈り物はあなたのためにつくられたのですが、一つの戯曲としてまとまるまでは、暗闇のなかに散らかされた混乱した考えの集まりに過ぎませんでした。最初に夢のなかの像のようなぼんやりした思いつきであったものが、光に向かうことによって明瞭になり、やがて判断力によって取捨選択されることになったのです。」ロウス教授はコールリッジに見られる同様の心的過程を『桃源郷への道』のなかで魅力的に分析している。コールリッジが読書や経験から得た観念は記憶の貯水池に沈み、その暗闇のなかで未知の魚とつがうことで奇妙な雑種が生まれ、それがいつの日か光に跳ね上がるところを捕まえられ、新たな生命に震えるそのものが老水夫の海洋やクビライ汗の聖なる流れに移されることになるというのである。このように考えると、古典主義、ロマン主義、リアリズムの相違とは主に程度の違いであると思われる。無意識から流れ出るものに対する現実原則や超自我と言われるものの抑制や検閲の程度によるのだと。リアリズムの作家は現実感覚のために他のすべてを犠牲にしようとする。古典主義者は、「良識」の名のもとにある種の非現実性を断固求める一方、「よき趣味」の名のもとに他の部分では慎重である。彼の衝動や想像は洗練された上流階級によって形成された社会的理想にその多くを支配されている。
そして、「ロマン主義文学は生についての夢であり、社会や現実に拘束された衝動に栄養と満足を与える」とロマン主義の定義が下される。 古典主義やロマン主義というときに問題になるのは、それが時期が特定される歴史的なものであるのか、それともいつの時代にも認めることのできる常数なのかということである。「程度の違い」という言葉は、いかにもルーカスが古典主義やロマン主義を常数として捉えているように感じさせるが、この「程度の違い」は、特定の歴史的時期、十九世紀ヨーロッパのロマン主義の隆盛とその後のリアリズム小説の発達を経た後、はじめて見て取れるものであることを忘れてはならない。ルーカスもそのことには意識的で、十八世紀の古典主義に対する反動にロマン主義の歴史的意味を与え評価している。
[ロマン主義という]酒の強さはまちまちだが、一杯のワインが知性や観察力を活気づけることもあれば、飲みすぎが駄目にすることもある。酒は「ドライで軽いなのが最高だ」と言われる。だが、ドライ過ぎるのは、生にとっては、少なくとも想像力によってはよろしくないだろう。十八世紀はドライの具合を極端なものにしてしまった。ロマン主義の反動は健康的なものだった。だが、殆んどの反動がそうであるように、行き過ぎた結果、今度は不健康なものになったのである。ロマン主義の作家は「喜びの果実」を味わい、ますます雄弁に、言葉づかいやイメージの音楽性についてはより魔術的に、感情や想像力の自由さが生み出す強さの点ではより印象的で、情念だけが創造をすることができるのだという雰囲気にあった。魔法の手引きであることができた。だが、陶酔が増すとともに、偉大な作家のもつ平衡、世慣れた人間のもつ知性と洗練がどんどん失われていった。作家である自分自身や自分の影ではない性格を観察したり描いたりするのに必要な、落ち着いた共感の力も失われて、ロマン主義のこの肥大化した自我は働き蟻をうようよと従えた女王蟻のように膨れ上がって、つまりは多産だがグロテスクなのである。良きにつけ悪しきにつけ、これがロマン主義の徴候で、このディオニソスの夢は鎖につながれた魂を解放してくれたが、あまりにも遠くまでいった者には新たな鎖が既に重たいものになっている。この鎖は多くの生命を破滅させたが、世界をどれだけ豊かなものにしたかわからない。
こうした評価は、ロマン主義を古典主義の成熟にまで至らない未熟なものとするヴァレリーやそれに倣ったかのような吉田健一と最も食い違うところだろう。吉田健一のロマン主義に対する評価は全面的な否定である。「この文学で人間の悲みや苦みを取り上げることに重点が置かれてゐるとか、さうした題材の暗い影がそれまでになかつた新鮮な効果を収めてゐるとかいふことよりも浪漫主義の文学と言へば寧ろその特徴はどこかぼやけたものがあつてそれが余韻嫋々といふ種類のことと性質が違ひ、それを書いてゐるものの注意力の不足がそれを読むものの同じく注意力の不足で黙認されてゐることにある。又浪漫主義の文学で好んで対象に選ばれた事柄も確かにそれを手伝つてゐて悲みや苦み、或は喜びであつても、さういふものは小説風に一々その理由を述べ立てるのでなければただのさういふ名称である意味での観念になり、観念をさうして観念的に扱つた結果は単にそこに何となくさういふものがある気がするだけのことに終り、浪漫主義の文学の場合はこの脱落が当時の人間が観念を宛てがわれることに馴れ、その観念の中には真顔で受け入れることになつてゐるものが幾つもあつたことで補はれた。」と『ヨオロツパの世紀末』では書いている。 もっとも、ルーカスにとっては、ロマン主義もリアリズムも、それらが古典主義とともに文学の全体を例示する三角形を形づくり、古典主義でも、ましてやロマン主義でもリアリズムでもない「文学」を際立たせることをもってその使命を終えるようである。
生も文学も果てのない綱渡りである。バランスこそが肝要。「古典主義かロマン主義か」という問いに対する答えは勿論「両方」である。ヘリックやミルトンが「野生の礼儀」や「奔放な用心深さ、軽薄にして狡猾」といった逆説的な表現で詩の素晴らしさを讃えたときに理解していたのはそのことである。(・・・)古典主義、ロマン主義、リアリズムは三つの極点で、三角形の頂点にあたり、魔法の円はそのなかにある。その円のなかにホメロスにアイスキュロス、ヴェルギリウスにタキトゥス、チョーサーにロンサール、そしてシェイクスピアがいる。より角に近いところにラシーヌ、ユーゴー、イプセンがいて、円の外側には十七世紀の英雄的に過ぎる悲劇、十八世紀の古典的に過ぎる悲劇、十九世紀、二十世紀のリアリズムに過ぎる小説がある。 実際、ルーカスにとっての理想の文学のありか、古典主義とロマン主義とリアリズムの点を結んだ三角形のなかにある魔法の円には一人の古典主義者、一人のロマン主義者、一人のリアリズム小説家もいないのである。このどの極点にも傾かないバランス、正常についての感覚こそルーカスから学んだ最も貴重なことだったと吉田健一は書いている。
正常であるといふことがルカスから受け取つた最も貴重なものであることが漸くこの頃になつて解つた。別にさういふ話をルカスがした訳ではなくて正常を英語で何と言ふのか現在でも知らない。併しルカスの本の選択にもそれに対する批評にもさういふ人間の精神の病的であることを斥けた働きが感じられてそれは本の世界全体に光が及んで行く感じだつた。我々の精神が病んでゐなければ特定の主義が読書の楽みまで左右するといふことがないからである。例へばもし所謂、文学なるものに少しでも意味があるならばそれは本を読む楽みから出発して常にこれに即し、そこに結局は戻つて行くのでなければならない。
最後に、エピローグの最後の部分を訳しておこう。
ロマン主義の復興以来、夥しい数の創造的価値のある作品が生み出された。批評もずっと感受性の鋭いものになった。だが、十八世紀の批評家たちがしばしば賞賛に値するものを書き、そうでない場合も、少なくとも実に明快なナンセンスを書いたのに対し、コールリッジ、ユーゴー、カーライル、ラスキン、スインバーンといったロマン主義の批評家たちは、すぐれた才能をもちながらも、もっとずっと読者をうんざりさせる高遠曖昧としたナンセンスに陥りがちである。この星見る者たちはあまりにたわいなく井戸に落ち、しかもその底にはめったに真実は見い出されないのである。
今日、文学に関わる多数の者にとって、ロマン主義はいまだ最上の地位にある。少数派にとってもロマン主義の底流や、酩酊度の高い支流がすっかり排除されているというには程遠いので、というのも、「古典派」の振りをしながらロマン主義を嘲笑し、少なくすまされるところで多くを積み重ねるのは公正でないと言うのがいまの批評の流行だからである。「現代の文学にとってまず大事なのは現代的であるということだ」といまの批評家は書く。不運なことに、現代というのは、しばしば最新であることと同じである。ペイターは、さほどの説得力はないが、すべての芸術は音楽を熱望すると考えたが、いまは、ジャーナリズムを熱望している。我々はそういう方向に進んでいる。
こうしたことは、単に趣味の問題に思われるかもしれない。そうなら、私の主張していることは、議論しても無駄なことである。批評ができる唯一の一般的な判断とは、「これはいい」(なにに対していいのか)とか「これは美しい」(誰にとって美しいのか)といったことではなく、「これは真であり、あれはそうではない」とか「これは健全であるようだが、あれは病んでいる」といったことだと思う。ボードレールのような作家を追放するのは大いに遺憾なことだろうが、プラトンなら躊躇いなくそうするだろう。ボードレールを読まないのは大きな損失である。しかし、彼のような作家は病んでいる(多くの天才たちはそうではない)のだということを無視したり、そうした作家たちばかりを読んで、病的であるよりは健康であることが、不健全よりは健全なほうが幾許かの利点があることを忘れるのは道理にかなったことではないように思われる。現代の多くの批評に対する私の不満とはこうしたことを忘れてしまうことにある。つまり、ある作家が「興味深い」存在で、見掛け倒しであっても、口のなかにいままでにない味を残してくれるなら、彼が卑劣であろうが残忍であろうが、卑屈であろうが馬鹿であろうが、まったく気にしないという態度である。我々の時代は、未熟なままに死んでいったボードレールの卵で満ちている。彼らの殆んどがもうたくさんと思えるのはこのことによる。
批評の理論においても、一般的な真理を見い出そうとする者は、結局のところ、自らの価値、自らの見地を、自分自身に、自分自身のために語ることに終わる。ケンブリッジから戦争に赴いた二十二年の私の限られた経験を振り返って検証してみても、この確信は強まるばかりである。戦場において、砲弾の音と叫び声とが頭上を飛びかう穴のなかで、全滅を待つだけかのように座っているとき、支えになってくれたのは、神秘家や宗教家や小説家ではなく、ホメロスやモリスやハウスマンといった詩人たちだった。肘掛け椅子に座っているときなら大いに賞賛したいものでも、こうした状況での検証にどれだけの現代文学が耐えられるかは疑わしいところである。これが唯一の検証方法というのではないが、厳格なものではある。そしてもし現代ヨーロッパの愚劣さが新たな大洪水を招きよせるとしても、慰めが見い出されるのはギリシャのロマン主義的古典主義、アイスランドとハーディのロマン主義的リアリズム、十八世紀フランスの愉快なリアリズム的古典主義ということになろう。彼らといえど間違っていることはあるかもしれないが、彼らほど物事の真実に近づいた者を私は知らないのである。
こうした考えは多くの者に訴えることはないかもしれないが、少数の関心は引くかもしれない。批評家の職業上の賞賛よりも普通の読者の手紙のほうがずっと価値があることを人はいつの日か学ぶものである。それはともかく、私が長いこと、多分いつも、批評の最後の頁に書くつもりでいたことがある(少なくとも、この考えだけは是としてくれる者もあろう)。生は短い、そして私には、創造する心は、それがどんなに不完全なものでも、批評する心よりも好ましいとますます思われてきた。批評も楽しく興味深いが、創造はより幸福で、より生き生きしている。とにかく、私は生と文学についての私の考えを語ってきた。それが真実ならさしあたりこれで十分だろうし、真実でないなら多くを語りすぎたことになる。
ここには、ほとんど正常さを逸するまでに正常にこだわる吉田健一の顔色なからしめる正常さがあり、すべてが異常な十九世紀という時代において、風俗壊乱の非難を受ける詩を書いたのはまさに正常だったからこそだと、吉田健一によってやや苦しげに擁護されたボードレールを、それでもやはり病的だと指摘し、追放まで示唆しているところなど、まさにルーカスの面目躍如たるものがある。