諸事情ありまして、はてなブログに引っ越しました。
ブログ名はこれまでと変わらず「電気石板ノート」です。
部分的にはこのブログの記事も引っ越しましたが、割と最近のものに限られています。
このブログはそのままにしておきますが、さてどうなるものですやら。
おつきあいしてくださる方がいらっしゃるなら、はてなブログにご来訪ください。
これからもよろしくお願いします。
齋藤礎英
電気石板ノート
2018年10月2日火曜日
2018年8月24日金曜日
2018年8月23日木曜日
薄倖の女だてらの片小袖諸肌脱ぐと蛸の彫りもの
翻訳は私自身によるものなので、異なっているかもしれない。
このよく知られた一節で、文学形式の諸効果と前快感が同一視されていることは、多分、一見思われるほどつまらないことではない。もしlustやUnlustが文学的結構の分析において我々をさほど遠くまで導いてくれないにしても、Vorlust前快感は快感における彩りであり、より有望なように思われる。前快感とは、実際、奇妙な概念であり、目標あるいは終結に向けて進んだり後退したりする修辞や、目的のために利用されもすれば自律的で逸脱や循環的な運動が可能でもある遊びの形式的領域(私は前快感はどうも前戯を含意するのではと思っている)を示唆する。前快感の構成部分を取り出し始めると我々が見いだすのはエロティックの全形式であり、多分それは文学を人間のある働きとして理解するための助けとして形式化を行うのに最も必要なものであるだろう。ヘミングウェイの『日はまた昇る』の冒頭で、語り手とその友人たちが夜のパリを経巡るが、街と店と仕事場と住居のあいだに垣根が全くないことに心地よさと猛烈なノスタルジーを感じてしまった。きっと、かつては隅田川の周辺にもこんな街があったに違いない。
2018年8月22日水曜日
三池崇史『神様の言うとおり』/ベルイマン『この女たちのすべてを語らないために』/ナ・ホンジン『哭声ーコクソンー』
『CUBE』や『SAW』以来だろうが、登場人物が気づかぬうちにこの世界とまったく別のルールが支配する別の世界に投げ込まれる、シチュエーション・ホラーというか、サスペンスはすっかり濫用が続き、もはやそのことによって作品の仕掛けとして目立つものではなく、創作物の背景としてあるに過ぎないので、それ自体で評価の基準になることはなくなってしまったが、まあ、私自身の趣味としてはそういう仕掛けは好きな方だし、最近でいうと、アニメの『血界戦線』や『刻刻』(たぶん最近というには遅れていそうだが)などは面白かったし、映画でいえば、三池崇史の『神様の言うとおり』(2014年)などは、各種レビューでは惨憺たる評価なのだが、普通の高校生が、ダルマ(置物によくあるダルマである)とだるまさんが転んだをする、体育館で巨大な招き猫(置物によくある招き猫である)の首に鈴を付ける、巨大な熊(これまた置物によくある)を相手に嘘をつかないことを命じられ、こけしたちと後ろの正面誰だ、をすることを強いられて、脱落した者たちが次々に死んでいく、といったばかばかしい設定なのだが、私はばかばかしいことが悪いと思ったことがないので、やや大げさなことをいえば、この世界であってもかく存在する根拠などありはしない。
原作のことはまったく知らないので、最後に浮浪者のリリー・フランキーが神としてあらわれ、引きこもりでネットに浸りきっている大森南朋がドスを懐に世界を救う、と母親に言い捨てて出て行くのは続編があるのか、不評で立ち消えになったのか、ウィキペディアによれば、未完である第一部の途中までを映画化したものらしいから、唐突な始まりと平仄を合わせた唐突な終わりとしてみた方が、味わいがある。
むしろ、ばかばかしさからの転落があるとすれば、それを説明しようとする愚鈍さにあるが、そうしたマイナスの評価も、一歩一歩執拗な関連づけを行い、数学的な世界や物理学的な世界があるように、ひとつの世界を制作するまでになると逆転することになるから、一概にそれ自体でどうこういえるものではないが、そもそもばかばかしさに足を踏み入れることができるのも特異な才能であり、日本映画でいえば、鈴木清純、北野武、園子温などの系譜に三池崇史も加えられるだろう。
出鱈目ということで言えば、ここ最近、連続してイングマール・ベルイマンの映画を見ているが、未見であった『この女たちのすべてを語らないために』(1964年)(邦題も素晴らしい)の出鱈目さ加減も相当なもので、『夏の夜は三たび微笑む』(1955年)は男女の組み合わせが奇妙にねじれた結果、最終的に収まるべきところに収まるというシェイクスピア風の喜劇であったが、こちらは(ちなみにこの映画はベルイマン初のカラー映画なのだが)往年のハリウッドのスクリューコメディーの流れをくむもので、巨匠であるチェリストの葬儀がから始まり、四日前にさかのぼることから、『イヴの総て』のように巨匠の実像と虚像が交錯して描かれるのかと思えばさにあらず、なかば進行役として音楽批評家が伝記を書く目的で、屋敷に乗り込むのだが、屋敷では巨匠が正妻、愛人を含めた七人の女性たちとともに生活しており、拳銃をところ構わずぶっ放す女もいれば、同じ屋敷内で批評家とベットをともにする貞操観念のおかしな女もいる。
批評家が忍び込んだ部屋で、煙草の火の不始末から無数の花火が屋敷全体を包み込むように華々しくあがり、字幕の画面が挿入され、この場面は特になにかを意味しているわけではない、と注釈まではいる。
この映画の前作である『沈黙』あたりから、衣装、美術、風俗などについてベルイマンとフェリーニとの類似が目立って感じられるようになったが、この映画のように女性がわらわらと出てくるとなおさらフェリーニとの近さを思わずにはおれないのだが、同じく「女性映画」と呼ばれることはあっても、両者が決定的に異なるのは、フェリーニの映画が男性に対する「女の都」であるのに対し(それにはマルチェロ・マストロヤンニという監督が全幅の信頼を寄せられる名優の存在も大きい)、ベルイマンの場合、男性が存在しなくとも成立することにある。
実際、この映画においても、巨匠は批評家がどんなに会おうとしても姿を見せず、最後の屋敷からのラジオ放送の場面になってようやく姿を見せるが、大きなマイクに隠れて顔は見えることなく、演奏の前に死んでしまう。フェリーニの女性が祝祭をもたらすとすれば、ベルイマンの女性は男性にとっては自身の存在が失われる喪の儀式が招き寄せられるといえるかもしれない。
儀式といえば、ナ・ホンジンの『哭声ーコクソンー』(2016年)も妙な映画で、儀式による霊能力合戦のようなものが、思ってもいない地点に着地する。ある田舎町のはずれによそ者である日本人(国村隼)が住み着いたことから、奇怪な事件が起き始める。次々に死者が出るが、身内の犯罪のようでもあり、他人がかかわっているようにも思える。あるいは伝染病かとも思われ、だとすると、ロメロの『クレージーズ』のような、あるいはこれまでにも何回も試みられてきたような形を変えたゾンビものだとも思える。ところが、主人公である警官のクァク・ドウォンの娘の様子がおかしくなり、キリスト教の牧師はなんの役にも立たず、土俗的な祈祷師に祈祷を頼むこととなり、さらに第一の原因であるかに思えた日本人もまた悪霊的なものを追ってきた霊能力者らしいとなると、冒頭に、イエスの復活したあと、その姿が弟子たちに疑念を引き起こすという『ルカによる福音書』が引用されているのが意味深く感じられるのだが、だからといって一筋縄でいかないのは、そのことによってどう振る舞うべきか、あるいはべきだったかなんら直接的な示唆を与えてくれるわけでもなく、なにを信じるべきかすべてが宙づりのままに残されるからで、確実なのは娘を思いやる父親の愛情だけなのだが、周知のように、信仰は肉親の情愛を断ち切ることから始まる。
水棲の累卵満ちる沢野辺に寄せては返す夜々の思念を
『想起、反復、徹底操作』および『快感原則の彼岸』の議論を例証として、我々は、反復が想起の一種であり、そのつながりが不明瞭で失われている物語を再組織化する一つの方法であることを見る。もし反復が死の欲動、正しい終結を見出すことについて語るのならば、反復において演じられるのは、必然的に終わりに向かう欲動のベクトルだということになる。すなわち、一度正しいプロットを決定すれば、プロットは終結するのである。プロットそのものが徹底操作である。
小学校の6年間ピアノを習っていたのに、練習などいっこうにする気配もなく、バイエルさえ終えることができなかったし、一日四分音符分だけでも進めていけば、いつかは習得することができるはずだとベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜を買ってみたものの、思い立ったことすらすぐに忘れて、音楽の才能などないことはわかりきっているものの、音楽も厳密に言えば、音だけで成り立っているわけではなく、題もあれば、それによって引き起こされる情感もあるわけで、『南米のエリザベス・テイラー』まではまだ余裕をもって、ほおほおと傾聴していたのだが、こと「京マチ子の夜」にいたって、悔しくて悔しくて歯ぎしりしてしまった。なぜなら、当然自分が書いていても、というか、書くべきである表現のはずだから。
田楽
・豆腐を串に刺してあぶるのを田楽という。田楽は、下には白袴、その上に色あるものをうちかけ、サギ足で踊る姿(サギは一本足で立つことから)が特徴だが、豆腐の白に味噌を塗り立てるのは、その舞姿に似ているために田楽というか。夢庵(牡丹花宵柏)の歌に
たか足を踏みそこなへる面目をはひにまぶせる冬の田楽
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