脚本、デヴィッド・リンチ。撮影、ピーター・デミング。音楽、アンジェロ・パダラメンディ。出演、ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング、アン・ミラー。
アメリカの哲学者で、映画についての著述も多くあるスタンリー・カヴェルは、間違った記憶もその映画の一部だといったが、複数回は見ている『マルホンド・ドライブ』を今回見直してみて、さすがに度を過ごしているのではないかと思えたのは、この映画には回り舞台のようにこの世界を転換するいかにもリンチ的な小道具である鍵つきの小さな箱が出てくるのだが、映画の最後でナオミ・ワッツ演じる女優としてハリウッドで成功することを夢見る女性が箱の鍵を開けた瞬間、ちょうど最新版の『ツイン・ピークス』の最後で、最初のシリーズでは死体としてあらわれるローラ・パーマーが、紆余曲折を経て、クーパー捜査官に連れられてかつて住んでいた場所に連れ戻されるとともに、おそらくはあり得たかもしれない隣り合った世界の存在に気づき、絶叫するように、箱の鍵を開けることが世界の関節を外すことになり、フラッシュバックのように映像が積み重なり、すべてが箱のなかに収斂されることによって終わるのだとなぜか思い込んでいたのだった。
それゆえ、中盤を超えたあたりで、箱が登場し、あまつさえ鍵を開けようとするのだから、ありゃりゃ、妙に変だな~と思って見終わってみると、面白いことは相変わらず面白いのだが、やはりこんな終わりかたっだったっけという納得のいかない感じなぬぐえないのだけれど、考えてみるに、『イレイザー・ヘッド』や『インランド・エンパイア』のように次々と謎が提示される系列の作品とは異なり、リンチ作品のなかでも『マルホランド・ドライヴ』は、『ストレイト・ストーリー』までとは言わないが、単純明快な作品であり、特に『インランド・エンパイア』を見た後には見返していないこと、最新の『ツイン・ピークス』を見たことなどが重なって、いかにもリンチ風の小さくて実用性がありそうもない鍵つきの箱に引っ張られて、記憶が改変されたといえればいいのだが、それほど簡単ではないのは、すでに十五年以上前の公開時に見た映画をその後何回か見直したにもかかわらず、間違ったままの記憶がよくも保たれてきたのだなあ、ということで、まさしく間違った記憶も『マルホンド・ドライブ』という映画のヴァリエーションのひとつなのである。
物語は、ハリウッドに住む古くからの女優のおばの留守のあいだに家を間借りし、女優としての一歩を踏み出したいと望んでいる女優の卵であるナオミ・ワッツと、理由ははっきりしないのだが、裏社会のボスから命を狙われ、題名にもなっているマルホンド通りで事故にあって、記憶を失ったローラ・エレナ・ヘリングが出合い、二人で協力して失われた記憶の痕跡をたどっていくもので、先にも述べたように、中盤を超えたあたり、小さな箱を開けることによって、回り舞台のように登場する人物こそ同じだが、まったく異なった世界があらわれ、ある結末を迎えるのだが、その結末がちょうどクラインの壺のように、前半の世界にも通じるものとなっていて、女性同士ではあるが、「運命の女」のノワール的な雰囲気を色濃く浮かび上がらせる。
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