ローマ帝政期の軍人であり文人であったプリニウスと『一九八四年』の作者であるオーウェルに特に接点はない、だろうと思う。オーウェルがプリニウスを読んだかどうか、オーウェルのそれ程熱心な読者ではない私にはわからない。ただ、積極的に政治にコミットしたルポルタージュや小説や評論を書く一方、ウドハウスやハドリー・チェイスを評価したオーウェルのことだから、閑文字の王様のようなプリニウスを読んでも、あながち眉をひそめるようなことはなかっただろう。
この二人を並べたのは、プリニウスの『博物誌』の象についての記述をなにということもなしに読んでいるときに、ゆくりなくも思い起こしたのがオーウェルの『象を撃つ』という短い文章だったからである。この二つの文章は鮮やかな対照をなしているように思えた。そして、プリニウスとオーウェルの象は別の著作への連想を誘いもする。
プリニウスの『博物誌』八巻から十巻までが動物についての記述で、八巻が地上の動物、象はその冒頭、一章から十三章までを占める。八巻は全部で八十四章だから、数ある陸生動物に関する文章のおよそ六分の一でもって象が扱われていることになる。『博物誌』は観察と実験の書ではなく、むしろ、ギリシャ・ローマにおける博物学的知識と文章の集成であるから、動物界全体を見渡した上での客観的な象の位置づけというよりは、当時の人々が動物に向けた関心のこれだけ多くの割合を象が占めていたのだと考えるべきだろう。
プリニウスの象については、澁澤龍彦が『私のプリニウス』のなかの一章を当てて書いている。『私のプリニウス』は、プリニウスを「あんなに嘘八百やでたらめを書きならべて、世道人心を迷わせてきた男」と評しながら、まさしくそんな男でなければ書けないなんの役にも立たない文章を楽しげに引用することに終始している本なのだが、象の項目もその例外ではなく、「象がおのれの皮膚の皺の間に虫を誘いこみ、虫が何匹もそこにたかったと見るや、急に皺をぎゅっとちぢめて、一挙に虫どもを圧殺してしまう」というような「ナンセンスすれすれ」の記事をもっぱら紹介している。それはともかく、意外に思えるのは、象が動物のうちでも頭が良く、感情においてもっとも人間に近い動物とされていることである。澁澤龍彦の訳文があるので、それを利用させてもらう。
地上動物中で最大のものは象であり、それはまた感情において人間にもっとも近い動物である。実際、象は自国語を理解し、ひとのいうことをよく聞き、教えられた仕事をおぼえ、愛情や名誉を熱望するばかりか、人間にさえまれな美徳、正直、知恵、公平の美徳をそなえ、さらには星に対する崇拝、日月に対する崇敬の念をもそなえている。多くの著者たちの報告するところによれば、マウレタニアの山中では、新月のかがやく夜、象の群れがアミルスと呼ばれる河のふちに降りてきて、それぞれ自分たちのからだに水をふりかけて浄めの儀式を行い、かくして星に敬意を表すると、疲れた子どもを先頭に立ててふたたび彼らの森に帰ってゆくという。彼らはまた、他人の信仰をも理解している。すなわち海をわたるとき、象使いが象たちに、かならず国へ帰してやるからと誓って約束しなければ、彼らは船に乗りこもうとはしないそうだ。また象たちは苦痛に襲われると──あの巨大な図体でも病気になることはある──大地を彼らの祈りの証人にでもしようとするかのごとく、仰向けに寝て空へ向って草を投げるという。従順さについていうならば、彼らは王の前に膝まずき花冠をささげて礼拝する。インド人は、彼らがノトゥス(私生児)と呼ぶ小さな象を耕作のために使用する。
この他にも、象の知性の例としては、ギリシャ語の文をおぼえて書いたことや、教えられたことを理解するのが遅く、罰として繰り返し叩かれていた象が、夜同じことを練習していたことなどが記されている。また、感情については、高名な文法学者アリストパネスの愛妾である花売りの娘に恋をした象がいたという。一言で言えば、間違いなくプリニウスの象はもっとも人間的な動物の一種なのである。
オーウェルの『象を撃つ』は、彼がイートン校を卒業の後、ビルマで警察官をしているときの経験を書いたものである。ある日、飼われていた象にさかりがつき、鎖を切って逃げ出した。象は街で暴れまわり、インド人一人と牝牛一頭を殺し、家を壊し、露天の果物をたいらげた。なんとかしてくれるよう呼び出されたオーウェルはライフルを手に象と対峙する。彼の背後には象が撃たれるのを見物しようとする二千にも上る群衆が集まっている。オーウェル自身は象を撃ちたくないのだが、群衆の手前撃たないわけにはいかないと感じる。このときオーウェルは「帝国主義の本質」を垣間見る思いがし、それがこのエッセイの大きな主題になっている。
「わたしという白人は銃を手に、何の武器も持っていない原住民の群衆の前に立っていた。一見したところはいかにも劇の主役のようである。だが現実には、後についてきた黄色い顔の意のままに動かされている愚かなあやつり人形にすぎないのだった。この瞬間に、わたしは悟ったのだ。暴君と化したとき、白人は自分自身の自由を失うのだということを。うつろな、ただポーズをとるだけの人形に、類型的なただの旦那になってしまうのだということを。支配するためには一生を『原住民』を感心させることに捧げなくてはならず、したがっていざという時には、つねに『原住民』の期待にこたえなくてはならないのだ。仮面をかぶっているうちに、顔のほうがその仮面に合ってくるのだ。わたしはその象を撃たないわけにはいかなかった」(小野寺健訳、以下同じ)とオーウェルはその状況を分析する。だが、「象を撃つ」でもっとも印象的なのは、こうした考察以上に、弾丸を撃ち込まれて倒れた象が、なにか象以外の得体の知れないものに変貌することなのである。
二度と立ち上がりそうもないことは明らかだったが、象はまだ死んではいなかった。山のような脇腹を苦しそうにふくらませながら、きわめて規則正しく、ガーガーと長い喘ぎ声をあげて呼吸していた。口を大きくあけている──わたしには洞窟のような薄桃色の喉の奥まで見えた。いつまで死ぬのを待っていても、その呼吸はいっこうに弱まらなかった。ついにわたしは残っていた二発を、心臓があるあたりと思われるところに向けて撃ちこんだ。赤いビロードのような濃い血がどっと溢れ出したが、それでも象は死ななかった。弾丸があたってもその体は小ゆるぎもせず、苦しそうな呼吸は一刻も休まずにつづいていた。たしかに死にかけてはいた。ゆっくりと、ひどい苦悶のうちに死につつはあったのだが、それはわたしからは遠い、これ以上は弾丸もまるで効かない世界での出来事だった。わたしはこの恐ろしい音を止めなくてはという気になった。巨大な動物が目の前で倒れたまま、動く力もなく死ぬ力もない姿を見ていながら、その命を絶ち切ってやることさえできないのは耐えがたい気がしたのだ。わたしは自分の小さいライフルを取ってこさせると、象の心臓と喉を目がけて、たてつづけに弾丸を浴びせた。だが、効果はまったくないようだった。苦しそうな喘ぎは時を刻むように規則正しくつづいていた。
象の厚い皮の下から、弾丸さえ届かない、なにか手に負えない剥き出しの生命が姿をあらわす。ここで思い起こされるのは吉田健一のことである。吉田健一は皮が厚く、図体の大きな動物、恐竜、象、河馬などを好んだ。可愛い動物は食べても旨いというのが吉田健一の持論の一つで、さすがに象を食べたことはなかったようだが、「一体に旨い魚や鳥というのは飼って見たらさぞ可愛いだろうという気がして、これは例えば石川県金沢のごりがそうであり、獣の中では象や河馬が可愛いが、その両方とも非常に旨いそうである」(『私の食物誌』)と書かれている。
それはともかく、殺すに殺せない、止めるに止められない象の発する「恐ろしい音」は、例えば、次のような文章を連想させる。
人間以外の動物は純粋に時間とともにあると言へる。又時間が存在を貫いてゐて存在と時間の区別は形而上学の領域に属することであることを思ふならばこれは自分とともにあることでもあつてそれ故にさういふ動物が戦へば死ぬまで戦ひ、これは死期が近づいたのを知るのと違つて現に自分が戦つてゐるその時間のうちにゐるのであつてそれで傷いて倒れて死期が近づいたのを知る。それは小鳥が朝来て木の梢や家の屋根で鳴くのとその状態に就て変ることはなくてそこに共通の静かなものが時間である。(中略)ここで改めて言ふならば時間とともにあるといふのも多分に抽象的な表現であつてそのこと自体に間違ひがないことは我々が達するその状態から類推出来てもその状態に不断にあるといふのが実際にどういふ境地にその当事者を置くものかは不断にさうであることが望み難い我々には想像を越えるものがある。又それが栗鼠に限らず凡て自然の中で暮らしてゐる動物、又それに似て均衡が取れた条件で飼はれてゐる動物に就いて見られることであるのは断るまでもないことでその眼が語るものが我々に語り掛けて来るやうであつてそれを我々が理解しないのを意に介してもゐないといふ印象を受ける。(『覚書』)
オーウェルの「恐ろしい音」と吉田健一の「静かなもの」は盾の両面であって、我々が飼い慣らされた動物とつきあったり、お互いの領分を侵すことなく動物を見ているときには動物とともに動き、動物のうちに身を潜めている「静かなもの」は、なにかのきっかけ、例えば数発の銃弾によって、我々の「想像を越え」た、「我々が理解しないのを意に介」さない「恐ろしい音」となって溢れ出すのである。
プリニウスの象は、その習性や行動のあれこれが人間に近いということ以上に、ギリシャ・ローマの様々な記述が集まってできあがっていることにおいて、人間的であり、文明の産物である。広大な書物の世界を渉猟し、なんの役にも立たない挿話を生涯を通じて収集しつづけた澁澤龍彦はまさにプリニウスを語るにふさわしい人物だと言える。かくして、プリニウスとオーウェルの象は、珍奇な挿話の吹きだまりである澁澤龍彦と、常に「時間とともにある」という一歩間違えればグロテスクな相貌を見せる試みを続けた吉田健一を好対照をなすものとして引き出すのだが、象が皺に虫を誘いこみ、集まったと見るやぎゅっと皺を縮めて殺すといった無意味なエピソードを読むとき、なにか「恐ろしい音」に似たものを感じ、両者に通底するものがあるようにも思われるのである。