2018年6月30日土曜日

24.象の皺と恐ろしい音――ジョージ・オーウェル『象を撃つ』








 ローマ帝政期の軍人であり文人であったプリニウスと『一九八四年』の作者であるオーウェルに特に接点はない、だろうと思う。オーウェルがプリニウスを読んだかどうか、オーウェルのそれ程熱心な読者ではない私にはわからない。ただ、積極的に政治にコミットしたルポルタージュや小説や評論を書く一方、ウドハウスやハドリー・チェイスを評価したオーウェルのことだから、閑文字の王様のようなプリニウスを読んでも、あながち眉をひそめるようなことはなかっただろう。

 この二人を並べたのは、プリニウスの『博物誌』の象についての記述をなにということもなしに読んでいるときに、ゆくりなくも思い起こしたのがオーウェルの『象を撃つ』という短い文章だったからである。この二つの文章は鮮やかな対照をなしているように思えた。そして、プリニウスとオーウェルの象は別の著作への連想を誘いもする。

 プリニウスの『博物誌』八巻から十巻までが動物についての記述で、八巻が地上の動物、象はその冒頭、一章から十三章までを占める。八巻は全部で八十四章だから、数ある陸生動物に関する文章のおよそ六分の一でもって象が扱われていることになる。『博物誌』は観察と実験の書ではなく、むしろ、ギリシャ・ローマにおける博物学的知識と文章の集成であるから、動物界全体を見渡した上での客観的な象の位置づけというよりは、当時の人々が動物に向けた関心のこれだけ多くの割合を象が占めていたのだと考えるべきだろう。

 プリニウスの象については、澁澤龍彦が『私のプリニウス』のなかの一章を当てて書いている。『私のプリニウス』は、プリニウスを「あんなに嘘八百やでたらめを書きならべて、世道人心を迷わせてきた男」と評しながら、まさしくそんな男でなければ書けないなんの役にも立たない文章を楽しげに引用することに終始している本なのだが、象の項目もその例外ではなく、「象がおのれの皮膚の皺の間に虫を誘いこみ、虫が何匹もそこにたかったと見るや、急に皺をぎゅっとちぢめて、一挙に虫どもを圧殺してしまう」というような「ナンセンスすれすれ」の記事をもっぱら紹介している。それはともかく、意外に思えるのは、象が動物のうちでも頭が良く、感情においてもっとも人間に近い動物とされていることである。澁澤龍彦の訳文があるので、それを利用させてもらう。

        地上動物中で最大のものは象であり、それはまた感情において人間にもっとも近い動物である。実際、象は自国語を理解し、ひとのいうことをよく聞き、教えられた仕事をおぼえ、愛情や名誉を熱望するばかりか、人間にさえまれな美徳、正直、知恵、公平の美徳をそなえ、さらには星に対する崇拝、日月に対する崇敬の念をもそなえている。多くの著者たちの報告するところによれば、マウレタニアの山中では、新月のかがやく夜、象の群れがアミルスと呼ばれる河のふちに降りてきて、それぞれ自分たちのからだに水をふりかけて浄めの儀式を行い、かくして星に敬意を表すると、疲れた子どもを先頭に立ててふたたび彼らの森に帰ってゆくという。彼らはまた、他人の信仰をも理解している。すなわち海をわたるとき、象使いが象たちに、かならず国へ帰してやるからと誓って約束しなければ、彼らは船に乗りこもうとはしないそうだ。また象たちは苦痛に襲われると──あの巨大な図体でも病気になることはある──大地を彼らの祈りの証人にでもしようとするかのごとく、仰向けに寝て空へ向って草を投げるという。従順さについていうならば、彼らは王の前に膝まずき花冠をささげて礼拝する。インド人は、彼らがノトゥス(私生児)と呼ぶ小さな象を耕作のために使用する。
       
 この他にも、象の知性の例としては、ギリシャ語の文をおぼえて書いたことや、教えられたことを理解するのが遅く、罰として繰り返し叩かれていた象が、夜同じことを練習していたことなどが記されている。また、感情については、高名な文法学者アリストパネスの愛妾である花売りの娘に恋をした象がいたという。一言で言えば、間違いなくプリニウスの象はもっとも人間的な動物の一種なのである。

 オーウェルの『象を撃つ』は、彼がイートン校を卒業の後、ビルマで警察官をしているときの経験を書いたものである。ある日、飼われていた象にさかりがつき、鎖を切って逃げ出した。象は街で暴れまわり、インド人一人と牝牛一頭を殺し、家を壊し、露天の果物をたいらげた。なんとかしてくれるよう呼び出されたオーウェルはライフルを手に象と対峙する。彼の背後には象が撃たれるのを見物しようとする二千にも上る群衆が集まっている。オーウェル自身は象を撃ちたくないのだが、群衆の手前撃たないわけにはいかないと感じる。このときオーウェルは「帝国主義の本質」を垣間見る思いがし、それがこのエッセイの大きな主題になっている。

 「わたしという白人は銃を手に、何の武器も持っていない原住民の群衆の前に立っていた。一見したところはいかにも劇の主役のようである。だが現実には、後についてきた黄色い顔の意のままに動かされている愚かなあやつり人形にすぎないのだった。この瞬間に、わたしは悟ったのだ。暴君と化したとき、白人は自分自身の自由を失うのだということを。うつろな、ただポーズをとるだけの人形に、類型的なただの旦那になってしまうのだということを。支配するためには一生を『原住民』を感心させることに捧げなくてはならず、したがっていざという時には、つねに『原住民』の期待にこたえなくてはならないのだ。仮面をかぶっているうちに、顔のほうがその仮面に合ってくるのだ。わたしはその象を撃たないわけにはいかなかった」(小野寺健訳、以下同じ)とオーウェルはその状況を分析する。だが、「象を撃つ」でもっとも印象的なのは、こうした考察以上に、弾丸を撃ち込まれて倒れた象が、なにか象以外の得体の知れないものに変貌することなのである。

        二度と立ち上がりそうもないことは明らかだったが、象はまだ死んではいなかった。山のような脇腹を苦しそうにふくらませながら、きわめて規則正しく、ガーガーと長い喘ぎ声をあげて呼吸していた。口を大きくあけている──わたしには洞窟のような薄桃色の喉の奥まで見えた。いつまで死ぬのを待っていても、その呼吸はいっこうに弱まらなかった。ついにわたしは残っていた二発を、心臓があるあたりと思われるところに向けて撃ちこんだ。赤いビロードのような濃い血がどっと溢れ出したが、それでも象は死ななかった。弾丸があたってもその体は小ゆるぎもせず、苦しそうな呼吸は一刻も休まずにつづいていた。たしかに死にかけてはいた。ゆっくりと、ひどい苦悶のうちに死につつはあったのだが、それはわたしからは遠い、これ以上は弾丸もまるで効かない世界での出来事だった。わたしはこの恐ろしい音を止めなくてはという気になった。巨大な動物が目の前で倒れたまま、動く力もなく死ぬ力もない姿を見ていながら、その命を絶ち切ってやることさえできないのは耐えがたい気がしたのだ。わたしは自分の小さいライフルを取ってこさせると、象の心臓と喉を目がけて、たてつづけに弾丸を浴びせた。だが、効果はまったくないようだった。苦しそうな喘ぎは時を刻むように規則正しくつづいていた。
 象の厚い皮の下から、弾丸さえ届かない、なにか手に負えない剥き出しの生命が姿をあらわす。ここで思い起こされるのは吉田健一のことである。吉田健一は皮が厚く、図体の大きな動物、恐竜、象、河馬などを好んだ。可愛い動物は食べても旨いというのが吉田健一の持論の一つで、さすがに象を食べたことはなかったようだが、「一体に旨い魚や鳥というのは飼って見たらさぞ可愛いだろうという気がして、これは例えば石川県金沢のごりがそうであり、獣の中では象や河馬が可愛いが、その両方とも非常に旨いそうである」(『私の食物誌』)と書かれている。

 それはともかく、殺すに殺せない、止めるに止められない象の発する「恐ろしい音」は、例えば、次のような文章を連想させる。

        人間以外の動物は純粋に時間とともにあると言へる。又時間が存在を貫いてゐて存在と時間の区別は形而上学の領域に属することであることを思ふならばこれは自分とともにあることでもあつてそれ故にさういふ動物が戦へば死ぬまで戦ひ、これは死期が近づいたのを知るのと違つて現に自分が戦つてゐるその時間のうちにゐるのであつてそれで傷いて倒れて死期が近づいたのを知る。それは小鳥が朝来て木の梢や家の屋根で鳴くのとその状態に就て変ることはなくてそこに共通の静かなものが時間である。(中略)ここで改めて言ふならば時間とともにあるといふのも多分に抽象的な表現であつてそのこと自体に間違ひがないことは我々が達するその状態から類推出来てもその状態に不断にあるといふのが実際にどういふ境地にその当事者を置くものかは不断にさうであることが望み難い我々には想像を越えるものがある。又それが栗鼠に限らず凡て自然の中で暮らしてゐる動物、又それに似て均衡が取れた条件で飼はれてゐる動物に就いて見られることであるのは断るまでもないことでその眼が語るものが我々に語り掛けて来るやうであつてそれを我々が理解しないのを意に介してもゐないといふ印象を受ける。(『覚書』)

 オーウェルの「恐ろしい音」と吉田健一の「静かなもの」は盾の両面であって、我々が飼い慣らされた動物とつきあったり、お互いの領分を侵すことなく動物を見ているときには動物とともに動き、動物のうちに身を潜めている「静かなもの」は、なにかのきっかけ、例えば数発の銃弾によって、我々の「想像を越え」た、「我々が理解しないのを意に介」さない「恐ろしい音」となって溢れ出すのである。

 プリニウスの象は、その習性や行動のあれこれが人間に近いということ以上に、ギリシャ・ローマの様々な記述が集まってできあがっていることにおいて、人間的であり、文明の産物である。広大な書物の世界を渉猟し、なんの役にも立たない挿話を生涯を通じて収集しつづけた澁澤龍彦はまさにプリニウスを語るにふさわしい人物だと言える。かくして、プリニウスとオーウェルの象は、珍奇な挿話の吹きだまりである澁澤龍彦と、常に「時間とともにある」という一歩間違えればグロテスクな相貌を見せる試みを続けた吉田健一を好対照をなすものとして引き出すのだが、象が皺に虫を誘いこみ、集まったと見るやぎゅっと皺を縮めて殺すといった無意味なエピソードを読むとき、なにか「恐ろしい音」に似たものを感じ、両者に通底するものがあるようにも思われるのである。

2018年6月25日月曜日

23.濡れ浴衣三味線の音をしたたらし――森鴎外『そめちがへ』



明治30年「新小説」に掲載されたもので、鴎外のなかでは唯一、江戸文学の雰囲気を濃厚に残したものであって、生涯の著作を通じてそう大きく変化することのなかった簡潔な文章は、短編ではあるものの会話も手紙の文も描写も地の部分になだれ込んで途切れることなく続き、しかも狭斜の巷が舞台になっていることもこの作品以外にはなく、芸者が主人公の女性小説というのも、歴史小説や史伝で女性が取り上げられたことはあっても、通常の小説ではなかったはずで、まさにないないづくしのこの短篇は、決して鴎外の代表作とは言わないが、私にとって忘れがたいものとなっていることは確かで、内容はいたって単純で、自分の馴染みである「親方」を別の芸者に横取りされた兼吉が、やけ酒にあけた次の日、昼過ぎに帰ろうとしているところに、こちらは色恋には関係のない上客の三谷さんが来たので、おつきあい、二階で飲んで、愚痴ではないけれど経過を報告すると、そういうときには何でもしたいことをして遊ぶに限るといわれた兼吉、それなら清さんと一日でも遊んでみたい、しかし、あいつにはお前の友達の小花がいるじゃないか、それはわかっています、ですから私の心を打ち明けて、駄目なら駄目、受け入れてくれるなら、命も惜しくはありませんと言い切るので、三谷さんが清さんを呼んでくれることになり、しばらくしてあらわれた清さん、ひとつ布団に枕が二つ並んでいるのを見て、驚いて帰ろうとするのを、まあ話だけは聞いてください、と兼吉、酒の席で、ついあなたの名前を出してこうなった次第、茶番ですから浴衣に着替えて三十分も横になっていてください、というものだから、しばらく横になってからお湯に入って帰ってしまったが、小花のほうには朋輩からよからぬ噂も入って、気がふさいでいるところに、兼吉から届く手紙、浮気性で、最近の親方との仲は誰もが知っていたことですが、どんな因果か、ずっと以前から清さんにはお前というものがありながら、思いをかけるようになり、酒席での勢いから二人になれることになったときには嬉しさにあふれたことですが、いざ二人になってみると、そんなことを考えた自分の身がいやしくも汚らわしく、酒席の冗談ですませてしまった事情の説明とともに、清さんほど優しい人はいないのだから、大事にして御上げなさい等々付け加えてあって、どこが嬉しかったのか小花はこの手紙を肌身離さず持ち歩き、やがて家督を継いだ清二郎は、小花でなければ生涯女房をもつことはありません、と一徹なのに親類も根負けし、仲立ちを務めたのは三谷さんで、一方兼吉のほうは、と最後の文が続くのだが、この文章が哀切さと向こう意気と、つまりは戯作文学の、江戸遊里文化の華がみっちりと詰まっており、大好きな一節であって、すなわち、「兼吉はまたけふが日迄、河岸を変へての浮気勤、寝て見ぬ男は誰様の外なしと、書かば大不敬にも坐せらるべきこと云ひて、馴染ならぬ客には胆潰させることあれど、芸者といふはかうしたものと贔屓する人に望まれて、今も歌ふは当初(そのむかし)露友(ろいう)が未亡人(ごけ)なる荻江のお幾が、彼(かの)朝倉での行違(ゆきちがひ)を、老のすさびに聨(つら)ねた一節(ふし)、三下(さんさが)り、雨の日を二度の迎に唯だ往き返り那加屋好(なかやごのみ)の濡浴衣(ぬれゆかた)慥(たし)か模様は染違(そめちがへ)。」、露友は荻江節の宗匠が継ぐ名前で、天保七年に生まれ明治十七年に死んだ「今紀文」と呼ばれた近江屋喜左衛門が長らく絶えていた四代目を襲名し、現在でも細々と続いているらしいが、およそ江戸俗曲に疎い身の、ネットで数回見てみたものの、長唄小唄と聞き違へ。

2018年6月18日月曜日

9.マルホランド変奏曲――デヴィッド・リンチ『マルホランド・ドライブ』(2001年)




 脚本、デヴィッド・リンチ。撮影、ピーター・デミング。音楽、アンジェロ・パダラメンディ。出演、ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング、アン・ミラー。

 アメリカの哲学者で、映画についての著述も多くあるスタンリー・カヴェルは、間違った記憶もその映画の一部だといったが、複数回は見ている『マルホンド・ドライブ』を今回見直してみて、さすがに度を過ごしているのではないかと思えたのは、この映画には回り舞台のようにこの世界を転換するいかにもリンチ的な小道具である鍵つきの小さな箱が出てくるのだが、映画の最後でナオミ・ワッツ演じる女優としてハリウッドで成功することを夢見る女性が箱の鍵を開けた瞬間、ちょうど最新版の『ツイン・ピークス』の最後で、最初のシリーズでは死体としてあらわれるローラ・パーマーが、紆余曲折を経て、クーパー捜査官に連れられてかつて住んでいた場所に連れ戻されるとともに、おそらくはあり得たかもしれない隣り合った世界の存在に気づき、絶叫するように、箱の鍵を開けることが世界の関節を外すことになり、フラッシュバックのように映像が積み重なり、すべてが箱のなかに収斂されることによって終わるのだとなぜか思い込んでいたのだった。

 それゆえ、中盤を超えたあたりで、箱が登場し、あまつさえ鍵を開けようとするのだから、ありゃりゃ、妙に変だな~と思って見終わってみると、面白いことは相変わらず面白いのだが、やはりこんな終わりかたっだったっけという納得のいかない感じなぬぐえないのだけれど、考えてみるに、『イレイザー・ヘッド』や『インランド・エンパイア』のように次々と謎が提示される系列の作品とは異なり、リンチ作品のなかでも『マルホランド・ドライヴ』は、『ストレイト・ストーリー』までとは言わないが、単純明快な作品であり、特に『インランド・エンパイア』を見た後には見返していないこと、最新の『ツイン・ピークス』を見たことなどが重なって、いかにもリンチ風の小さくて実用性がありそうもない鍵つきの箱に引っ張られて、記憶が改変されたといえればいいのだが、それほど簡単ではないのは、すでに十五年以上前の公開時に見た映画をその後何回か見直したにもかかわらず、間違ったままの記憶がよくも保たれてきたのだなあ、ということで、まさしく間違った記憶も『マルホンド・ドライブ』という映画のヴァリエーションのひとつなのである。

 物語は、ハリウッドに住む古くからの女優のおばの留守のあいだに家を間借りし、女優としての一歩を踏み出したいと望んでいる女優の卵であるナオミ・ワッツと、理由ははっきりしないのだが、裏社会のボスから命を狙われ、題名にもなっているマルホンド通りで事故にあって、記憶を失ったローラ・エレナ・ヘリングが出合い、二人で協力して失われた記憶の痕跡をたどっていくもので、先にも述べたように、中盤を超えたあたり、小さな箱を開けることによって、回り舞台のように登場する人物こそ同じだが、まったく異なった世界があらわれ、ある結末を迎えるのだが、その結末がちょうどクラインの壺のように、前半の世界にも通じるものとなっていて、女性同士ではあるが、「運命の女」のノワール的な雰囲気を色濃く浮かび上がらせる。

2018年6月15日金曜日

22.プランク常数と花鳥――石川淳『雅歌』


 『雅歌』は石川淳の昭和二十一年作の短編小説。なぜか石川淳自選の岩波の『石川淳選集』には収められていない。手近の文庫にも収められておらず、全集にあたるしかないようだ。

 特に筋らしい筋はなくて、過去の、そしてつい最近の女性との交渉や、そうした女性たちを遙かに見下ろして「惚れぬいた」プランク常数hのことなどが語られている。プランク常数は、プランク定数ともいわれ、量子力学の基礎となるもので、光のエネルギーに関わっている。古典力学とは異なる新たな世界像を示し、石川淳が愛用する言葉、「精神のエネルギー」に近似したものをあらわす。

 この語り手が、敗戦直後の諸事不便な時期ではあるが、「家よりも、娘よりも、見つかるものならばぜひ手にとつてみたいとおもふたつた一部の本」があって、それが村田了阿の『花鳥日記』である。「ただし、かならず了阿みづから筆をとつて書いた原本に限る」というから贅沢な要求である。

 森銑三の「了阿法師とその生活」によると、村田了阿は安永元年(1772年)、江戸浅草黒船町の煙管問屋、村田家の次男として生まれ、天保十四年(1843年)七十二歳で没した。了阿は法名で、本名は高風。幼い頃から学問を好み、身体も虚弱で、両親もあえて商人になることを強いなかった。寛政八年、二十五歳で剃髪し、下谷坂本の裏家に引きこもった。『一切教』を両三度熟読したという。交友も広く、狩屋えき(木片に液)齋、石川雅望、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦と多彩な顔ぶれを誇っている。

 著作は二十ほど残っているというが、『花鳥日記』は文化十二年、了阿四十四歳の年とその翌年の二年分が伝えられている。十二年のものは国書刊行会刊の『近世文藝叢書第十二巻』で、十三年は中央公論社の『新燕石十種第三巻』で読むことができる。内容は、その名の通り、ほとんど花と鳥、それに昆虫のことで占められており、しかも記述は簡潔を極める。二年分の日記が原稿用紙にして二十枚程度であろうか。

 鳥では、鶯、雉、時鳥、雁、鵯などの鳴き始めたことが記され、花では、梅、桃、桜、藤、山吹、朝顔、紫陽花などを見たことが書かれている。花、鳥、昆虫が中心であるから、自然、春から夏へかけた時期の記述の方が圧倒的に多く、しかも花なら梅と桜、鳥なら鶯が、季節の変わり目を鮮やかに知らせてくれるからかもっとも頻繁にこの日記を賑わすもので、つまり、夏までの間でも、旧暦に従っているから二月、三月がもっとも詳細であると言える。

 それでは、文化十三年二月の日記を引用する。

        二月三日、きのふより南風いとあたゝかにて、ひえの鶯、声いと高し、所々の梅やゝ咲そむ、葛飾の梅、二三本さかり、其外やゝさきそめり、柳青みわたり、壮りおそきは、やゝきばめり、本所辺の椿もかれこれみゆ、        八日、世間の梅さかりなり、柳もやゝめばりて、きばみわたれり、されど、花さき出たるにはあらず、また、花さかぬ糸柳は、葉出て青みわたれり、下寺どほりの椿、やゝさきぬ、        十一日、かつしかの梅、新樹はさかりなり、古木は二山分さけり、此ほど、わが岨の椿咲そめたり、        十二日、朝、雉子二三声、始てなく、        十三日、かつしかの梅、古木もやゝさかりなり、此夕、月朗なり、幡随院の池にて田螺なく、        十五日、わが垣根の紅梅、白梅、わが岨の梅、峰の梅、さかり也、此夜、わがうらの田螺おり/\なく、        十七日、報春鳥両三度なく、此夜月朗也、田螺やゝなく、きのふけふ春雨しめやかにて、田螺ひるもなく、        十九日、わが峰の紅梅、ぶんご、諸所に咲匂ふ、岨の連翹さきいづ、椿やゝさかりなり、        廿二日、世間の柳花、さかりなり、地内平八が梅、やゝさき出、臥竜古木さかりなり、新樹はやゝうつろふ、さかりなるもあり、此ほど、世間のすゞ菜、花やゝさかり也、        廿三日、始て黄蝶を見る、        廿七日、朝、雉子なく、        廿八日、車坂上見明院の前、南より第二のさくら、ちらちらと咲そむ、我峰の緋桃、岨の連翹、やゝさく、我奥の杏花、既にさかんとす、世間の柳花、甚しく黄過ぎたり、清水堂の柳花は、実のさかりなり、御成道堀侯の柳、やゝ細葉を生ず、        廿九日、此程猶、世間の紅梅、ぶんご、青ぢくなど盛なるもおほし、我峰の椿さかりなり、

 『雅歌』の語り手は、この簡潔な記述が羅列されている日記のどこに魅了されたのだろうか。戦争中、空襲警報のサイレンが鳴って、一騒ぎあった後などに繰り返しのぞいてみたのがこの『花鳥日記』だったという。この日記の奇妙に人の気を引きつけて止まない力について次のように語られている。

         一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、草、木、虫などの消息がきはめて清潔にうつされてゐるほかには、このみじかい日記の中には他のなにもない。感想とか詠嘆とか歌とか句とか、よごれつぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたといふやうすで、立ちすがた、みごとである。ひとつ子ひとり通らず、ぶきみと見えるまでに人事を絶ち切つた、しかも抑揚のない、この静謐の世界は、そこにひとの気をしづもらせようとはしないで、かへつて心を波打たせる。もちろん、たとへば下谷浅草がいちめんの焼野原になつた日に、この日記の、御徒士町筋に林檎の花盛り云云とある條を見ることの、いつそうれしいやうな、じつは安つぽい感傷のたぐひを取立てていふのではない。また商売熱心の批評技術家が見当ちがへに食らひつくやうに、この日記をたねにして、さつそく筆者の在り方とか、生活の仕方とかを邪推しようなどといふ料簡はさつぱりおこらない。そのやうな気苦労からずつと遠くのはうにあつて、人間にものをいはせない仕掛の品物だといふところが、いらいらして奇妙である。

 『雅歌』という短編は、確かに話としては筋らしい筋がないが、語り手の精神遍歴の道程は鮮やかに示されている。語り手は精神の二つの極を往復する。一方の極には女性との恋愛、交渉など、「地上ののたのたあるき」であるしかないあまりに人間的な領域、自律的な運動をひたすらに続けるべき精神が細かなことに拘泥して動きを止めてしまう人間的な心情に押され気味の場がある。もう一方の極にあるのがプランク常数hで、ここには人間に関するものではそのうちで最も早く動くことのできる精神しか参加が許されてはいないような、精神が量子に見立てられ、目にもとまらぬ早さで非連続的に運動するような場がある。

 だが、このプランク常数hの場に行きっきりになることは、「下司の智慧の、常識のさかしら」や肉体がそれを許さないらしい。二つの極の間に「雅歌的季節」が発明される。「しかし、常識が遅蒔に顔を出しかけたときには、肉体のはうはとうに高熱をあげてわつと飛び出して行き、あちこちにぶつかつて発光しながら、おなじぶつかるならばやはり肌ざはりのわるくないやつがよささうだと、俗情はまだ抜けず、しぜん女人の肉体に接近していく傾向いちじるしく、生活も人生観もめちやくちやになつた代りに、今度は物理学からだいぶ遠走りしたところで、人間の生活には雅歌的季節があるとかんがへたはうが便利だといふことを体験上必至に発明してしまつた」とある。律法と予言に満ちた旧約聖書のなかに「編集のまちがへかと見られる」雅歌が収められ、「聖書ぜんたいにおもむきを添へ」るものとなっているように、男女の恋愛も精神の運動になにかしら資するところがあるに違いないと、いわば二つの極を折衷してみせるのである。

 これで納まってしまえば、話は単純で、通俗的といってもいい世間知を確認するだけのことになってしまうが、そうした安定した納まり具合を揺るがすのが村田了阿の『花鳥日記』なのである。この短い日記にプランク常数hの場が見いだされるというのではない。素早い精神の運動が見られるわけではないし、「鳥、草、木、虫などの消息」というのは精神が働く場としてはむしろ非常に限定され、閉ざされた場だと言うことができる。にもかかわらず、それが「心を波打たせる」のは、思いもよらぬところから「雅歌的季節」という一種の妥協的産物とは異なった季節があることを示されるためである。つまり、「雅歌的季節」と同じように、『花鳥日記』は一つの発明と見ることができる。

 プランク常数hまでとは言わないが、「単純で、便利で、早くて、いいにほひ」がするようである。では、『花鳥日記』の発明がなんなのかと言えば、それは「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」が当然であった日本の自然についての記述(歌、俳句、物語、随筆、日記等など)が様々あるなかで、それら人事を感じさせるものをまったく排除した場を造りあげたことにある。

 戦争中語り手を訪ねてきた「ある誠実な詩人」にこの日記の話をしたところ、その後その詩人はこう言ったという。「あの日記を自分でちよつとやつてみましたが、だめでした。たつたあれだけのことを書くのにも、ほかのことをいろいろ知つてゐないと、どうも書けないやうです」と。この困難は、了阿の造りあげた場というのがもともと人事の介入を許さないような峻厳な自然のなかにあるのではなく、まさに「感想とか詠嘆とか歌とか句とか」がうずたかく集積された江戸文化の中心部にあることに由来するものと思われる。花なら梅と桜、鳥なら鶯であり、住んでいるところは下谷坂本、江戸の真ん中と言ってもいいところで、そこに集積されたすべてを知りながらそれを拒否することが必要だからであって、知識とそれを捨てることによってできあがる場の形成に村田了阿の精神の運動が働いている。