デヴィッド・ブラッドリーの『マンドラの狂人たち』というアメリカ映画を見る。1960年代前半の作品だが、モノクロである。首だけになったヒトラーがまだ生きていて、性懲りもなく、新たに開発された毒ガスを使って、世界の滅亡をはかろうとする。
なんの面白みもない映画だったが、不思議なことにモノクロだと、キッチュなものが本物らしく見えるふとした瞬間がある。特に、車などの滑らかな光沢が出てくると、ルビッチ的、フェリーニ的にも思われ、ここで監督が替わってくれたら、と思うがもちろんそんなことにはならない。
もともとが複製芸術の、しかもなんでもない場面なので、アウラの残り香ということはないだろうが、骨董でいう時代がつく感じともまた違っていて、対照的に思い起こすのは日夏耿之介が編集した雑誌『奢灞都』のことである。もちろん日夏耿之介の趣味で統一されているから、一定の水準には達しており、内容的に嫌いなはずもないのだが、はっとする瞬間がないのだ。
2015年8月16日日曜日
2015年8月12日水曜日
何か物足りない――カート・ヴォネガット『母なる夜』
第二次世界大戦中、ドイツで放送活動に携わる一方、放送を通じてアメリカに情報を送り、いわばスパイとして働いていた男の、戦争が終わってからの悲喜劇。
悲劇というのは、彼がアメリカのために働いていたことは、三人しか知らず(一人は死亡している)、アメリカやイスラエルからは裏切りものとしていつでも追い回される危険があるからだ。
喜劇というのは、ヴォネガット特有のことだが、また彼に影響を受けた村上春樹にも特徴的なことだが、深刻な内容がごく軽いタッチで描かれているからだ。深刻なことを軽いタッチで描くことには食傷気味である。
ダンディズムはいまでも惹かれるから奇妙なのだが、このポーズというのは、ダンディズムとも吉行淳之介的なデタッチメントとも異なっていて、ユーモアとも微妙に違い、どちらかといえばスノビズムという言葉に一番近いように思う。
2015年8月11日火曜日
ラジオ・デイズ――ロバート・アルトマン『ボウイ&キーチ』(1974年)
ギャング映画のサブジャンルとでもいえるものに、銀行強盗映画がある。やくざ映画のサブジャンルにチンピラ映画があるようなものだが、銀行強盗映画が男女の破滅的な愛に向かっていくのに対し、チンピラ映画は同じく破滅的といっても、ホモ・エロティックな雰囲気が濃厚である。
その点で、やくざ映画のサブジャンルであるとともに、任侠映画の再解釈ともいえるかもしれない。銀行強盗映画は、ギャング映画のサブジャンルであるとともに、恋愛映画の再解釈ともいえるかもしれない。
恋愛映画が苦手な私は、『拳銃魔』などの例外はあるものの、銀行強盗映画も苦手なのだが、アルトマンがべたべたした恋愛を描くはずもないので、『ボウイ&キーチ』(1974年)には特に叙情的な部分はない。原作者がエドワード・ロビンソンで、ニコラス・レイの『夜の人々』と同じ、つまり、リメイクになるわけだが、恥ずかしいことにレイの方は見ていないので、どんな相違があるのかはわからない。しかし、題名だけから判断すると、レイの映画はよりフィルム・ノワール的であるようで、アルトマンの映画ではほとんど常に日の光が差している。
そして、なによりも、これもまた常に背景に流れているラジオが印象深く、ウディ・アレンの『ラジオ・デイズ』のようにノスタルジックでもなく、むしろラジオの音声という地、層が一枚加わった世界像を提示しているかのようだ。
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