キャロルJ・クローバーの『男と女とチェーンソー』の推薦文を書いているひとりにリンダ・ウィリアムズがいる。
もともとはルイス・ブニュエルを中心としたシュルレアリスム映画についての本などを書いていたが、『ハードコア』が主著といえるだろう。題名通り、ハードコア・ポルノについての一冊で、ちょうどそうしたものに興味津々なころに読んだので、楽しかったが、いかんせん、論じられている映画のなかで見ているのが『ディープ・スロート』ぐらいのもので、しかもおおっぴらな映像などないときだったので(もう2~30年前の話だ)巨大な修整でなにが行われているのかさえよくわからなかった。それにアメリカ・ポルノの単調さも既に知っているので、いまから思うと、何百本ともしれぬトラッシュ・フィルムを見ることを想像するだに、ご苦労なことで、と思わざるを得ない。それとも、日本のピンク映画やロマン・ポルノやアダルト・ビデオのように映像的な興奮を誘うようなものがあるのだろうか。もうそんなことを確かめる根気も失せてしまった。
そのリンダ・ウィリアムズが「フィルム・ボディ:ジェンダー、ジャンル、過剰なもの」という論文を1991年に発表している。そこで論じられているのが映画とaffectの関係である。affectというのは訳しにくい言葉で、感情、情動といえば別の単語が浮かんでくるし、感応とでもいっておく。
映画には観客に感応的な衝撃、身体的な反応、知覚的なリアクションを呼び起こす要素がある。それは感覚、感情、内蔵の反応も含んだ身体的状態、突然の物音や動きに飛び上がるような刺激への反応も含んでいる。
ウィリアムズが「ボディ・フィルム」と呼ぶのは、そうした身体的反応を強く求めるようなジャンル、つまり、メロドラマ、ホラー、ポルノグラフィーである。それぞれ、観客を泣かせようとし、怖がらせようとし、性的に興奮させようとする。それはまた、女性の肉体が快楽(ポルノグラフィー)、恐れ(ホラー)、苦悶(メロドラマ)として具体化されるという意味でも「ボディ・フィルム」といえる。
これらのジャンルが否定的に評価されることが多いのは、デカルト以来の二元論によって、「我思う」という認識が人間存在の根拠とされ、そうした認識とは無縁で、身体に訴えかけることを旨とする扇情的な映画は人間的本質に迫ることがないものとして一段低いものに思われた。
ところで、最近になって、この感応というものが思想的テーマとして浮上してくる。
特にフレドリック・ジェイムソンの『リアリズムのアンチノミー』や『古代人とポスト・モダン人』(もちろん、十七世紀にヨーロッパで起った、古代人と現代人の優劣についてのいわゆる新旧論争に引っかけてある)で感応がモダニズムの指標として大きく取り上げられている。
ジェイムソンによれば、感情emotionと感応は二つの時間性をあらわしている。感情とは名づけられ(喜怒哀楽)、物象化されており、それゆえに曰く言いがたい現在を欠いた過去と未来のもので、運命としての時間であり、そうしたものとして語られる。
一方、感応の時間性とは、永遠の現在であり、感情の語りを破壊するような観点を提示する。
この二つの情のあり方、時間性のあり方はリアリズムとモダニズムの相違を示すものであり、リアリズムの退潮とモダニズムの勝利は、感応の時間性によって語りの、感情の時間性が抑圧されたことを示している。
物語に変わってあらわれるのは場面の濃度であり、語りは提示することに取って代わり、散文はより詩的になる。
この対立は次のように一覧される。
感情 感応
体系 濃淡
名称 身体的感度
運命の印 永続的な現在/永遠
一般化された対象 強度
伝統的な時間性 唯一無二
人間性 診断、医療対象
動機 経験、実存主義
アリア 終りのないメロディー
表象 感覚データ
閉じられたソナタ形式 終わるという問題
語り 記述
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