『鬣』創刊号に掲載されたものです。
自分の好きな過去の人物に対して、一種の墓碑銘を書こうとしたのだが、結局、その試み自体は、創刊号だけで挫折してしまった。思ったよりずっと負担が大きかったのだ。
明治二十二年十一月七日、浅草田原町に生れる。万太郎の育った浅草は、浅草公園に、玉乗りや娘手踊、かっぽれや改良剣舞、まれに活動写真などの見世物が軒を並べていた頃の浅草である。昭和二年、古い浅草から新しい浅草への移り変わりを嘆き、昭和二十一年、戦後の浅草を歩いた際には、凝視にたへずと言うしかなかった。東京の下町を舞台にした作品を多く書いたが、畢竟、その場所も下町ことばも、常に既に失われたものである。失われたものを再構築する意志があったとは思えない。なにものかが失われた寂しさこそがすべての作品に通じる主題である。舞台の演出では雨や雪を降らせたがった。しとしと降る雨やしんしん積もる雪は舞台を覆い、場面を一色に染め、寂しさの色調に適っていた。・・・・・・の多用で雨垂れ文学と揶揄されたが、むしろ・・・・・・が台詞に立ち込め降りしきり万太郎の世界を形づくっている。役者は、台詞の難しさに、これは芝居にならぬと匙をなげることもあった。台詞が背景に従うものでなく、台詞と雨垂れが舞台を立ち上げる荷を負わされているためである。半生を振り返って、ぼくの一生は挿話の連続だという。エピソードが多いということではない。一生を貫くような決定的な出来事がないためである。『浪しぶき』にいう、いま、あたし、その返事、ほんとの返事ぢやァない、ほんとにお前さんのお肚からでた返事ぢやァないと思ふといつたのは、そのいやだといふ返事のなかに入らざる悲劇の蕊が入つてるから。・・・・・・その蕊がお前さんをゆがめてるから・・・・・・決定的出来事の堅い芯はなく、打ち寄せ返す波の挿話がある。言葉は出来事を説明せず、言葉として浮遊する。格好がつかない、どうでもいいけどさを口癖にし、羞恥心、いひかへればいろけであると書く。酒は飲むが、酒飲みが好む類、うに、このわた、塩辛、生ものいっさいを嫌い、ライスカレーや玉子焼を好んだ。昭和三十八年、赤貝を気管に詰まらせ、七十四歳で死ぬ。
神田川祭の中をながれけり
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