2018年1月10日水曜日

テオ・アンゲロプロス



・テオ・アンゲロプロスの映画は、その背景にあるギリシャの歴史が直感的にはわかりにくい。そのため、5年年長に過ぎないゴダールなどと比較して、先鋭的な映画人として、あるいは偉大な先達としてアンゲロプロスは正当に位置づけられることがすくない。


 フレドリック・ジェイムソンは、ギリシャという国の分かりにくさの理由として、他の西欧諸国ではそれぞれが少しずつ経験した国民的経験をギリシャがすべて経験したことによるとしている。つまり、革命、ファシズム、占領、市民戦争、外国からの干渉、西欧的帝国主義、亡命生活、議員制民主主義、軍による独裁、そして60年代以降には、新バルカン戦争とも言えるコソボ紛争で流出する難民を間近に見ながら、第一次大戦のときに自ら経験したことを追体験するといった幾重にも折り重なった経験の襞がギリシャの状況を一筋縄では捉えられないものとし、ひいてはアンゲロプロスの映画を感性で理解することを困難にしている。

2018年1月9日火曜日

セロニアス・モンクとケニー・カーシー

・一駅往復、1万歩少し歩く。晩年の庄野潤三のエッセイを読むと、2万歩歩くことを日課のようにしていた。健脚恐るべし。

・ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクは、若い頃には弟分のバド・パウエルのようにばりばりピアノを弾きこなしていたが、ある時期を境に、訥々とした、モンク風の弾き方を獲得し、ブルー・ノートでリーダー作を出して以降はそのスタイルを崩すことはなかった、と通常いわれている。そして、その証拠になるのが、『ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン』という1941年頃に録音されたアルバムで、ミントンズというクラブの専属ピアニストであったモンクの、その録音でのピアノは、いわゆるモンク風のスタイルとはまったく異なったものだった。
 ところで、『チャーリー・パーカーの芸術』を書いた平岡正明は、それが当時同じクラブに出入りしていたケニー・カーシーのピアノだと推察している。手元にあるジャズ事典によると、ケニー・カーシーは、カナダ出身のピアニストであり(トランペットも吹き、軍楽隊ではトランペットを担当した)、父親がチェリストで、デトロイト音楽院を卒業したという元々はクラシック畑の人物でだが、ノーマン・グランツがプロデュースしたJATP(Jazz at the Philharmonicの略で、もともとは1944年、ジャズ、ブルース、ポピュラー音楽の代表を一堂に会する催しだったが、その後、ジャズが独立して、緩い形の楽団として、巡業した)にも参加している。
 ケーシーは1916年の生まれで、ほぼモンクと同年代だが、病気によって50年代には音楽界を引退している。要するに平岡正明はモンクははじめからモンクだったといっているわけだが、ケーシーは50年代に音楽界を引退しているものの、死んだのは1983年であり、ジャズに関心のあるものなら誰でも知っているような、モンク伝説を知らなかったとは考えにくく、もし『ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン』のピアノが自分が弾いていたものなら、なにかいっていそうなものである。そこで平岡説は正しいのかどうか、疑問は宙づりのままに。