以下は序文と最初の一句です。
価格は800円となります。
興味をひかれた方はご一読ください。
はじめに
幸田露伴による『七部集評釈』(『露伴全集第二十巻』から『第二十三巻』)は、大正九年(1920年)から始められ、昭和二十二年(1947年)、死の直前まで二十七年にわたって断続的に続けられ、発表媒体も様々である。大正九年に始めた当初から七部集すべてを評釈するつもりであったかどうかはわからない。塩谷賛は、少なくとも、連句部分についてはそのつもりだったと推測している。
『冬の日』は貞享元年(1684年)、芭蕉四十歳のときのもので、歌仙五巻と追加六句より成っている。江戸を出て伊勢、大和、山城、近江、美濃を経巡っていた『野ざらし紀行』の途次の芭蕉を迎えて尾張で興行され、荷兮の編で貞享二年に刊行された。露伴の評釈は大正九年から十年にかけて雑誌『潮音』に「木枯の巻」、十三年に「初雪の巻」、同じく十三年に雑誌『思想』に「しぐれの巻」が掲載され、歌仙全五巻の評釈が完成されたのは、昭和十九年に岩波書店から刊行された『評釈冬の日』においてである。『冬の日』については蕉風の開花であり、芭蕉のことを知ろうとする者が第一に読むべきものだとしている。
露伴の評釈と好対照をなす安東次男の評釈(『芭蕉七部集評釈』『続芭蕉七部集評釈』『風狂始末』)などによって露伴の評釈の特徴として、ないもの、あるものを以下に挙げてみよう。
1.各巻の成立に至る経緯。刊行年、題名の由来、編者など基本的情報は記されているが、それ以上には出ない。
2.俳人たちの伝記的事項。各巻には芭蕉の門人としてその一生が詳らかなものもいれば、生没年すらわからない孫弟子の俳人たちまで数多く登場するが、彼らの伝記的事実、この歌仙の興行になぜ、どのように集まり、そのとき各参加者は何歳くらいで、各地の俳壇で(例えば『冬の日』なら尾張の、『炭俵』なら江戸の)どのような地位を占めているのかなど、ひとしなみに無視されている。芭蕉についてさえ、そのとき何歳で、その歌仙が芭蕉の生涯のどのような局面で催されたのかほとんど触れられることはない。
3.伝記的事項がないことに関連するが、各俳人たちにとってその歌仙が俳人として、また人間としてどのような意味をもち、契機となったかについて言及されることもない。
4.俳人たちの句風についてもほとんど触れられない。『評釈冬の日』しぐれの巻、「襟に高尾が片袖を解く 芭蕉」のところで、荷兮について「元来荷兮は才あれど心亢ぶりたる者とおぼしく、後には芭蕉にもしばし負きたるほどなるが、随ひて其句も面白きが多きかはりに後の附けにくきやうなるが多し」などと解説しているのは例外的である。
5.歌仙の決まり事についても触れられない。発句、脇句、第三、挙句それぞれに望まれる句の姿、花と月の定座とその決まり、付け順、物付、心付、匂い付といった付けの種類、初折表裏と名残の折表裏の全体的な構成、歌仙がどこまで進み、どのような状態で遷移しているのかなどについてもほとんど触れられることはない。
6.従って、俳人たちがそれら伝統的な決まり事、或は生れつつある芭蕉特有の俳諧に対して、どう従い、逆らい、ためらい、逆手にとっているかが探られることもない。
7.以上のことを総合して言えば、露伴の評釈には、「座の文学」としての連句という視点がまったく無視されている。「芭蕉俳諧の面白さは、弟子たちが芭蕉を客としてもてなす心と、芭蕉自身が客として座にいる心とのあいだに、つねに若干の喰違いがあって、そこにかもし出される滑稽の微妙にあった」(『続芭蕉七部集評釈』)という基調の上に成り立つ安東次男の評釈と露伴がまったく異なる所以である。
とはいっても、露伴はそうした流動的な創造の場である「座」に無感覚であったわけではない。例えば、『評釈曠野』新酒の巻発句、嵐雪の「我もらじ新酒は人の醒やすき」の解で、醒めやすい新酒に自らをなぞらえての謙譲の挨拶、対吟相手である越人への心配りが籠められるとともに、越人の江戸に入ってからの句業をも織り込み、まさしくこのときこの場でしか成立しない句であることを説いている。越人は嵐雪の前に芭蕉と対吟した。「雁が音の巻」がそれで、越人の「雁か音もしづかに聞けばからひすや」という発句に芭蕉は「酒しひ習ふこの比の月」とつけた。嵐雪はこのことを心に留め、自分を新酒に、芭蕉を上等な古酒に比して、自分が越人に強いるほどの佳酒ではないとほのめかすことで、師への尊崇と謙譲と客への心配りを込めた。しかし、露伴にとって、こうしたことは評釈で扱うべきことではなかった。
つまり、露伴の評釈に厳しい評価を与えることが多い安東次男と比較すると、露伴の方がテキスト偏重で一貫している。座の文学としての側面を無視しているわけではないが、それは各自感じるべき詩の問題であって、すでに解釈の範囲を超えている。
先に、露伴の連句解釈にないものを列挙したが、今度はあるものを挙げてみよう。
1.物語性、小説的要素。
連句はただ前句のみに附き、前々句にまで遡るべきでないことを言い、「若し然らざれば連句は物語の如くになりて、たゞ一條の事を叙するにとゞまるべし、何の多人相集まりて物する興あらんや」など、同じ意味のことが幾度か繰り返されているが、なにも露伴は連句から物語を追放しようとしているわけではない。特に『評釈冬の日』では、各句の評釈はそこからいかに物語を紡ぎだせるかの試みである。七部集の後半にいくに従って、評釈が簡潔になっていくのは、物語の希薄化と対応しているようにも思われる。露伴が厭うべきものとしてあげている物語とは、あくまで連句全体にわたり、それを一つにまとめ上げようとする物語、全体の筋のために従属に甘んじなければならぬ箇所を産みだす物語であり、各連環の独立性を損なうような物語である。
2.随筆的要素。
連句が世相の記述や批評、人事の判釈や賛嘆、恋愛や哀傷、諷刺や嘆息など「人生其儘」の雑多な要素から成り立っているなら、当然それは随筆の対象にもなる。詩が圧縮したことを随筆は様々な書物、知識からの引用によって展開することになろう。
3.言葉、文字の同定。
芭蕉の時代には幾つもの仮名づかいが入り乱れ、統一されていなかった。更に、仮名に対応する漢字はなにであるか、濁点を付けるべきかどうかなど、語句の詮索は評釈の基本的な仕事と言えるだろう。また、歴史について書くときには、まずその当時の言葉を徹底的に調べ上げる露伴にとって、当時の言葉づかいがどのようなものであったかを見極めることは評釈の土台を成す重要な仕事としてあった。
4.批評。
露伴の評釈には、相当多く旧解への言及がある。旧解に対する批評が露伴の評釈のかなり大きな割合を占めている。
5.考証。
旧解への批評はその誤りを指摘するだけにとどまらず、傍証となる例があげられていくことで、もはや批評の対象がどうこうというよりは、その事柄に対する考証へと移行する。例えば、『評釈冬の日』木枯らしの巻で言えば、野水の句「霧に舟牽く人はちんばか」で、足場の悪い様子をあらわしているとする古解への反駁から、舵の向きと舟を牽く者との「結合力」や、中国で牽縄のことを「百丈」と呼ぶことに説き及んだり、芭蕉の句「秋水一斗漏尽す夜ぞ」で、水時計の詳細に言及し、荷兮の句「巾に木槿をはさむ琵琶打」で、「打」という字の様々な用法をあげ、杜國の句「箕にこのしろの魚をいたゞき」で、子の代に通じる「このしろ」の伝説を引き、野水の句「今日は妹の眉かきに行」で、眉の書き方を列挙し、杜國の句「綾一重居湯に志賀の花漉て」で、古代からの入浴事情を語るところなどは、解釈や批評のためというよりはそれ自体が目的となっている。恐らく露伴にとって「陋解」や「鑿解」も含めた解釈の拡がりのなかに七部集があるので、それは同じように注釈を試みた『論語』にはないものである。確かに『論語』には七部集とは比べものにならぬほど多くの注釈が存在するだろうが、世事万般、雅俗、聖俗入り混じった拡がりという面で言えば、七部集の方が遙かに大きいのである。
『冬の日』は荷兮を中心とした名古屋の俳人たちが、芭蕉を師匠として迎えた歌仙集である。荷兮は生まれた年ははっきりしないが、享保元年に没した。尾張藩士とも医家であるとも伝えられている。尾張地方に蕉風をもたらした功労者だと言われている。露伴が随所で指摘しているように、演劇めいたところが特徴である。言葉を換えていえば、当時すでに独特の句風をもっていた。こうした演劇ぶりは、徐々に軽みを強めていった芭蕉とは異なった方向を向いたものだった。そのため、荷兮が芭蕉から破門されたという話さえ伝わっている。それは真実ではないらしいが、後年、荷兮が芭蕉風の俳句から離れていったことは確からしい。
正直なところ、この訳を思い立ったのは、露伴の晩年を強く支配した観念、「連環」をよりよく理解するためだった。「連環」とは、琥珀や翡翠の首飾りのように、石が糸によってつながっているような状態を指す。糸を切れば、石はばらばらになる。連句との関係でいえば、句それぞれはひとつの石のように完結しているが、それが細い因果、情、古典とへの連想などによってつながっている。
「連環」という観念のたどり着いた先が、芭蕉によって頂点に達した歌仙だった。遅ればせながら、露伴が芭蕉に惹かれた理由、さらには芭蕉の発明の意味が私にも重要に思われてきた。
このテキストは幸田露伴『評釈芭蕉七部集』の第一作目、『評釈冬の日』を現代語訳したものである。
各句の下に( )で加えたものは岩波文庫の中村俊定校注による『芭蕉七部集』から引用したものである。露伴は貞享のときの和書を定本にしているので、濁点もつかず、仮名遣いも異なっており、容易に読み下せない句も多いからである。
評釈部分について言えば、署名、引用箇所を明示する『 』「 」を付け加えた。また、行替えも数カ所しかしていないので、ほとんど読みやすさを考えて私が加えたものである。ただ『評釈冬の日』では特に目立つ、うねるような長い文章を分けることはしていない。それゆえ、センテンスの数は同じはずである。
齋藤 礎英
『冬の日』は尾張五歌仙という。尾張で芭蕉、荷兮などがものした俳諧連歌の歌仙五巻と追加でなっているからそういう。題が『冬の日』であるのは、俳諧がみな冬の季をもってはじまり、当然冬にあたっているからである。
『冬の日』の次に世に出た『春の日』は、「春めくや人さま〲の伊勢まゐり」、という荷兮の冒頭の句にちなんでいることは明らかである。『冬の日』という題になんの疑いがあろう。
ところが、第五の巻の、「霜月や鶴のつく〳〵ならび居て」、という荷兮の発句に芭蕉がつけた脇句の、「冬の朝日のあはれなりけり」、から名づけたという者もある。思い過ごしの考えである。
また、この集第一の巻の発句、「木枯らしの身は竹斎に似たるかな」、というところから、昔狂歌を好んだ竹斎に思いを及ぼし、かつ、頭に「狂句」の二字を冠し、句の前書きにも、「狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て」、とあることなどから、「宮柱ふろ吹たべて酒飲めば冬の日ながら熱田なりけり」、という古狂歌にちなんで、『冬の日』と名づけたと説く者もある。この集は熱田でできあがり、かつまた、俳諧に遊ぶ人たちがしたことであるから、あるいはそういうこともあるかもしれない。しかし、ただ安らかに冬の日の景物を詠ずる句で各巻がはじまることから、『冬の日』と名づけたと理解していいだろう。
笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊〃の嵐にもめたり、わびつくしたるわび人、我さへあはれに覚えける。昔狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て申侍る(笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまり〳〵のあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥び才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る)
これは前書きのある句である。前書きは端書とも詞書ともいう。詩に序や引があるようなものである。前書きのある句は、前書きがなくては面白くない句というわけではないが、前書きがあるからこそその句の成った時、所、意などが明らかとなり、感情の因、縁、性、ありようが確かになるものゆえ、前書きと離ればなれにはしないものである。であればこそ、前書きには冗長な言葉などを述べないものである。それなのに、作者に背いて、仏兮湖中の『一葉集』で、この前書きを省いたのはよくない、従うべきではない。前書きの言葉は平明で解釈も必要ない。ただ、わびは、侘しい有様で志を得ず、粛条として物さびしいことをいう。『新古今集』第十五巻、藤原定家の歌に、「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露」、というのがある。思い合わされて面白い。
「昔狂歌の才子」というのは、句中の竹斎である。医業では生活できずに京都を出て流浪する。睨之助を従者にして諸国を漂白するところどころで、狂歌を詠んで自ら慰める。『竹斎物語』三巻、もとより戯作ではあるが、烏丸光廣の作と伝えられ、文章歌に愛すべき所がある。その情調は、だいたい『伊勢物語』の業平東下りを模して、貧しく鈍感な凡庸な医師の笑われるべきかつ哀れむべき行動を描いて、滑稽で田舎ぶりの歌も載っている。後の十返舎一九の『膝栗毛』は、この『竹斎物語』を換骨奪胎して、ますます卑俗にしたものである。竹斎は尾張で、「扁鵲も耆婆も及ばぬ竹斎を知らぬ病家はおろかなりけり」、と吟じ、熱田ではふろ吹の歌がある。芭蕉はいま尾張にある。漂白の寒々しい灯に冷たい夢を照らされる夜、荒れ野に立ちのぼる烟りにやせ細った馬を駆る夕べ、風雨に身をさらして霜露に袂を濡らす千里のさすらいの果て、そこで境界が相似て、風骨もまたやや近い竹斎を思い起こす所以があろう。彼は狂歌、自分は狂句、忽然と木枯しの句を得た。
木枯の句の頭に「狂句」の二字が冠されている。狂句の二字も句に入れて、「芭蕉野分してたらひに雨をきく夜哉」、「櫓声浪を拍つて膓凍る夜や涙」、「牡丹蕊深く分け出つる蜂の別れ哉」、などの句のように、一気に読み続けて、字余りと思う人もいないではない。だが、それは誤りである。狂句と木枯はどうしてもつながらない。狂句の一語はむしろ前書きの詞に続くもので、ふと思いついて申し上げる狂句と理解すべきで、その狂句が木枯の句なので、はじめに狂句とあるまでのことで、深い意味があるとも思えない。
『冬の日』一部の目当ての二字であり、狂句の二字は読まなくともよいなどというのは人を惑わす説だという、信濃の何丸の説は煩わしいだけである。句は、「木からしの身は竹斎に似たる哉」で、「狂句木からしの身は竹斎に似たる哉」では、不格好で芭蕉の句らしくもない。寛文延宝のころには芭蕉も異体の句をつくったが、その頃だとしてもこんなに拙い続けようをした句はないし、ましてこれは貞享元年の句で、ようやく一家の体をなそうというときであれば、「狂句木からし」などというはずがない。
もっとも『甲子吟行』のなかにもこの句はあって、「名古屋に入る道の程諷吟す」として、「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」とあり、また同紀行中の句には、「手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜」などという字余りの句もあるが、それらをよりどころとして「狂句」の二字を句中の辞とするにはあたらない。また『甲子吟行』のもとの本は、信濃松本から奈良へ、その後江戸へ渡って、当時は伊勢の御師某の手に珍蔵されたが、それにもやはり「狂句木からし」と書き続けてあると、何丸は執着し、また『冬の日』第五巻の句に、「水干を秀句の聖わかやかに」とあり、揚句に「山茶花にほふ笠の木からし」とあるのも、狂句を秀句に対照し、「誰そやとはしる笠の山茶花」とある脇句と発句を受けとめているなどと主張もしているが、それらもすべていらぬ所に力を入れている。
『甲子吟行』のもとの本に「狂句」とそれ以下が書き続けてあるとしても、それは「狂句」と句上に記しているに過ぎない。芭蕉が狂句と思い狂句と書きつけたことになんの意外があろう。第五巻の揚句に、巻首の発句脇苦を承けたとしても、それもまたなんの不思議があろう。結局のところ、狂句の二字を句のなかに入れて何回となく読み、味わってみるがいい、句中の辞かどうかは自ずから明らかである。
さてまた、狂句の二字は句中の辞ではないとしても、狂句と断っているのはどういうわけか。竹斎は古人であり、詞書きにも狂歌の才子とあり、それと我が身を引き比べるのは過当であるから、狂句と断った、謙遜の意だとする者があるが面白くない。芭蕉は傲慢な人間ではないが、そうした理由のない謙遜をするものでもない。
特に竹斎は雖知苦斎(とちくさい)ではなく、雖知苦斎ならば名医道三のことだから、似ているといってはいささかはばかられるが、そうだとしても心遣いが過ぎるというものだろう。まして竹斎は物語のなかの人で、実績があったわけではなく、実体のない作り物になんで謙遜する必要があろう。竹斎は初めの名は道斎で、暗に雖知苦斎道三の高名を借りて、響きが似ている凡庸な医者を物語り作者が点出しただけである。なんで芭蕉が竹斎にへりくだる必要があろうか。この旧解は、はなはだ陋劣で従うに足りない。
芭蕉が狂句と書いたのは、はかない物語の竹斎と同じく、俳諧にも実体があるわけではない、との感をいだいたのだろう。連句の裏以下はもちろん、一句としても人名を含むものは芭蕉の句にはほとんどなく、西行、荘子、墨子、義朝など出所の明らかなものばかりである。寛文延宝天和のころは、芭蕉もまだ一家の詩眼を持つにいたらず、世の流行に従って「まつはるや藤三郎がよしの山」などの句もつくったが、『甲子吟行』のころになると、自らの詩眼も定まり、俳諧の自在を自分から妨げることはしないが、かといって戯れだけの意匠を一句として世に示すことは好まなくなった。
木枯の句、その精神は感慨のなかに洒脱さがあって、もとより戯れだけの句ではないが、竹斎ははかない物語の人物、いまでいう弥次郎や喜多八のことで、浮かれた部分があるから、詞書きにも狂歌の才子と断り、『甲子吟行』にも狂句と冠したまでである。後の人間がどうこういう程深い意味があるわけではない。そもそも、狂句であろうが、狂句ではないが謙遜したためであろうが、その句に狂句と題したる例がないから、句中の一つの言葉だという説も出たのだが、それは『竹斎物語』にのみ心をとられて、『杜少陵集』に眼をとめたいための誤りである。芭蕉が尊崇した杜甫は、永泰元年に蜀を去って嘉州戒州へ旅をする途中、真率奔放である四兄に会って、喜んで詩を賦して贈ったが、それを「狂歌行」と題した。杜甫がすでに「狂歌行」と題しているのだから、芭蕉が狂句と題してもなにも異とするところはない。
「似たる哉」のかなは詠嘆の哉であることは間違いない。な捨ての哉で、似たるかと疑っており、発句が疑っているために、脇句もまた「誰そや」と疑っている、俗に言う疑いの哉だというのは何丸の解釈である。従うべきではない。一句の風情、疑っていてはどこに味があろう。発句が疑っているから脇句も疑うというのも間違いだ。そうであれば、脇句は発句の奴碑で終わってしまう。連句は中心となる柱ににわかで琴を貼り付けて弾ずるようなものではない。