前ソクラテス派の哲学者は、世界を構成しているのが水や原子だとした。しかし、それは世界をあらわれ、あるいは現象と実在との二層に分けることになる。我々が世界として知覚するものには、実際には水の姿をしているわけでも、分子構造が感じ取れるわけでもない。つまり、いま見ている世界は仮象であり、その奥底には本当の実在がある。
パルメニデスのように、一者から世界ができているとすると、水や原子とは異なり、具体的なイメージをつかめないものであるから、一者そのものを説明しなければならなくなり、無限後退に陥る危険もある。
また、ある種の転換が行われ、仮象という言葉があらわしているように、知覚によって容易に変化してしまうものがいわゆる現象であり、知覚(各人間によって異なり病気や薬物などによっても容易に変化する)によって影響を受けないものが実在だとされる。しかし、実際には、知覚によって影響を受けない、変化しないものが実在だというのは何を根拠にしているわけでもない。それは、美であるとか正義、あるいは神といったものを永続的に変化しないものとせざるを得ない要請から生まれたものでしかない。
同時に、知覚よりも理性が上位におかれるということもある。というのも、知覚は単に変化を見て取るだけのことであり、そこに法則を読み取るのは理性であるからだ。そして、理性は三段論法のような論理に従い、やはり永続的で変化しないものに仕えるものだとされた。つまり、宗教、科学、形而上学と、それに対になった神、法則、実在が知覚、変化、仮象を抑圧するのが西欧思想の歴史なのだといえる。
スピノザは現象と実在の二元性を廃棄して、世界そのものが神のあらわれであり、知覚の対象は神という全体性の変容なのだとした。言い換えれば、世界は二つの見方ができる。一方ではごく日常的な知覚の絶え間のない変化とみることもできるし、より神秘主義的に(スピノザ本人はそれほど神秘主義的ではないが)あらゆるものを神の顕現とみることもできる。つまり、神という要素が残っていることで、存在論的に二層であった世界が一元化されたものの、認識論的に二層に分かれたともいえる。
自然を前にしてある種の荘厳さを訴える詩は枚挙にいとまがないが、その荘厳さを神とも永遠とも結びつけないことが可能なのだろうか。